佐々木閑さんと宮崎哲弥さんの対談本「ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す」の感想です。
律の研究者で一般向けにも鋭い切り口で語る佐々木閑さんと、
在家の仏教者であるが、専門の研究者にも引けをとらない膨大な文献研究と深い洞察をもった宮崎哲弥さんの対談本です。
初学者には難しい内容になっています!(本・レビューともに)
日本仏教のいい加減さ
内容は、仏教の文献学的研究にある程度関心がある方にとっては、非常に興味深い内容になっていると思います。
本の帯に「日本の仏教理解はいい加減すぎる」とあることから分かるように、
三宝(仏・法・僧)という基本からもう一度問い直そうということです。
しかし、内容は三宝にとどまらず、多岐に渡るトピックと問題意識の面白さは、一冊の本にしてしまうのがもったいないほどだと感じてしまいました。
おそらく、最近の中身が殆ど無いような、仏教の新書5冊分以上は、ゆうに超えるものが書かれています。
宮崎哲弥さんは、序文で昨年世界的ベストセラーになった「サピエンス全史」を引用していて、
その仏教理解が非常に的を得ていることをあげた後、
”歴史”やら”伝統”やらを持っているはずの日本仏教はどうなんだ、という問いかけをしている。
日本人の多くは、自らを仏教徒と認定しておきながら、かかる仏教の真義を知らない。
僧侶や仏教学者でさえも、大概はこのようにちゃんと説明できない。何故か。
なまじ日本仏教の伝統に根ざしているため、ブッダの思想の本質が見えなくなってしまっているのだ。
自分たちがもともと一体どういう基盤に、新たな教理、新たな実践を積み上げ、組み立てて来たのかを忘却してしまっているのだ。
だからブッダの死後、仏教という大きな器に見境なく流し込まれた”歴史”やら”伝統”やらに泥むしかないのだ。
これに関しては、耳が痛い、としかいいようがありません。
このような問題意識から、本書は基本とされている仏教教義を見直し、再活性化を図っているように思えます。
特に在家の仏教者の方にいわれてしまっては、僧侶は立つ瀬がありません。
まるで維摩経での、維摩居士にやられる出家者のようです。
仏教とは
仏教とは一般的に思われている「宗教」というよりも、
「自己と世界の関係」を根本的に組み替えるための「思考・実践の体系」だと考えたほうが本質が分かるとしています。
確かに超自然的なものを想定せずとも、実践ができるため、そう呼ぶことは可能かと思います。
縁起について
この対談も、仏・法・僧、という章わけになって進んでいくのですが、個人的に面白かったのは、お二人の縁起に関する意見のすれ違いです。
ほとんどお二人は共通の認識をもたれて、その後立場を明確に進んでいくように見えましたが、縁起についてはすこしスリリングでした。
佐々木閑さんは縁起に関して、主に初期仏教ベースで話されるのに対し、宮崎哲弥さんは龍樹の中観をベースに話されます。
十二支縁起は通常、通時的一方向性構造(此縁性)をもったのと捉えられますが、支分の識と名色においては、文献学的(相応部因縁相応「城邑」と「盧束」の二経)にみると、同時相依的双方向性構造をもったものとして語られています。
同時相依性縁起といえば、説一切有部を批判した龍樹がすぐに思い出されます。
さきほど書いたように宮崎哲弥さんは龍樹の中観に重きをおいているため、後代の龍樹や月称(チャンドラキールティ)において、縁起が同時相依性に解釈されうる余地は最初から内包されていた、ということを主張します。
反対に佐々木閑さんは、経典の一部のみを取り出して、それが全支分ひいては世界全体にあてはめるのは偏向であるとしています。
この縁起対立は業界でよくやられていて、木村泰賢や和辻哲郎、宇井伯寿の争い(実は木村も相依性を支持していたらしい)が有名ですが、他にも様々あります。
詳しく知りたい人はこの本の他では、宮崎哲弥さんの「仏教論争」もおすすめ。
輪廻について
このあたりも、仏教といえば話題になる話ですね。
無我を唱えているのに輪廻はおかしい、という批判は今に始まったことではなく、紀元前2世紀の『ミリンダ王の問い』にも同じようなことが出てきます。
伝統的には、無我であるから輪廻する、輪廻する(無常である)からこそ無我であるという無我輪廻が中心となっていますが、そこには反論もあります。
詳しくは本書をよんでほしいのですが、なぜ輪廻説が論争を引き起こすまでになるのかだけ、触れておきたいと思います。
仏教の解脱という用語は涅槃・悟りとほとんど同じ語義で用いられますが、解脱には輪廻がくっついてきます。
輪廻からの解脱。
解脱は有情が自らを輪廻的存在と位置づけることにおいて、実際に発生する概念です。
解脱を絶対的幸福(ニヒシュレーヤサ)、生天を相対的幸福(アビウダヤ)と自覚することによって、修行という出世間での行為に人を向かわせました。
しかし、輪廻という観念がまともにない地域では社会的な意義すらもちません。
インド仏教と比べると、「輪廻=苦」という個人の実存問題としても根本的な差異が生じます。
例えば中国で生まれた禅は、輪廻思想が根付いていない中国において華開きましたが、輪廻に対する実存的危機のようなものは感じ取れません。
佐々木さんはここで、「釈迦の仏教の輪廻という要素を薄めたところに中国独自の禅が出来上がる」と言及しています。
現在欧米でZENとして受け入れられているのも、輪廻思想の伝統から距離を持っているからかもしれないと、この本で示唆しています。
輪廻があるのかないのか問題は、鈴木隆泰氏のことばを借りて、「輪廻は仏教にとって本来的であったが、本質的ではなかった」というのが落とし所のような気がします。
しかし、個人的な意見としては、輪廻という現象の有無ではなく、輪廻思想を持つ地域の人が感じた実存問題に関しては、現代的に等置できる言葉を発見、もしくは創出すべきとも考えています。
(永遠に終わらない生とその不満足、原因と結果により引き起こされ続ける不満足、など)
とりあえず、縁起と輪廻のトピックのほんのさわりだけを見ましたが、この本の中ではさらに深く多くのトピックに関して、論じられています。
仏教に少し深く関わってみたい、と考えている人はこの本で取り上げられている知見を入れておいてもいいと思います。
自分の仏教理解が、語れる範囲のことも「なんとなく」で終わっていたことが多々あることに気がつくかもしれません。
まとめ
- 仏教に強い関心がある人はよんでもいいと思います
- 問題意識や視点は面白い
- 仏教マニアにはたまらない一冊
コメントを残す