前回の近況報告でも書いた通り、ここ一年の間は寺から出て社会での生活に身を置いておりました。
出家前には当然であったような、あたりまえの暮らしではありましたが、僧堂生活の単純から比べれば、無限の選択肢と情報にさらされるカオス環境とも言えるのが、現代人の “あたりまえ” の生活であったのだと改めて気づかされる思いです。
その中で、いくつか、生きる上で避けられぬ問題を考えさせられる機会がありましたので、それは次回以降の記事にしようと思います。
今回の記事では、この「生活環境」について雑駁な所感を書き残しておきます。
「おかれた場所で咲く」
仏教に限らず、見出しに挙げたような「おかれた場所で咲く」話は耳にする機会が多いものです。
いわく、「自身の特徴や能力には与えられた限りの独自の可能性があるのだから、与えられた環境において出来る限りの(=あるがままの)花を咲かせることが大事である。」といったようなお話です。
禅仏教の文脈でも「バラはバラ、スミレはスミレの花を咲かせればいい」という形の言葉はよく聞かれるものですし、それ自体はとても良い言葉だな、と思います。
ただ、私個人としてはこの語り口にいささか人気がありすぎるという問題を以前から感じております。それはどういうことかといえば、これら「このままで咲く」話は「人と自分を比べて他人の尺度で自己評価をする必要はない」ということを伝えるのが一つの目的であったと思うのですが、いつのまにか「人は皆、何もしなくても固有の価値があるので、自らを反省するのは余計なことだ」という話にすり替わっていることが多すぎるのではないかということです。
花のたとえで言うのであれば、「スミレの花がバラの花を咲かそうとする」無理を戒めていたはずの「このままで咲く」話が、「日も水も土も無い場所に落ちた種が自分を慰める」話になっている場合を散見します。
これはもちろん一般社会においてもそうですが、志を持って修行を続ける僧侶にも少なからず起こる現象で、えてして「環境の改善」や「自助努力」の否定を伴う安易な自己肯定としてあらわれがちです。
こうなると、自身の生活環境に関してのあきらめから、その反動の影響もあり、「細かいことをぐちぐち言っているようでは修行が足りない」などと、わけのわからないことを言い出すひともいるのですけど、大抵はかれらの心の底に自責の念に似たものがあり、まっすぐに理想に向かえぬことへのストレスがあるように見えます。
あたりまえの話ですが、日と水と土が無ければ花は咲きませんので、種は可能な限りそれらの好ましい環境を選んで移動するべきです。
人間の生活環境についても同じで、好ましい環境においてはあたりまえに遂行できることが、そうでない場合には全く機能しないという現象には覚えがある人も多いと思います。
学生時代の「校則」のようなものだと思われがちな、仏教の「戒律」ですが、その中心的な役割はこのような「修行環境の維持整備」にありますので、それら修行生活上の規則を守って暮らせる環境と言うものが修行者にとってはありがたいものなわけです。
ただ、上記のように「ぐちぐちいわない修行」に代表される「カオス環境において好き勝手やることこそが修行である」と本気で公言する人は少なくなくて、その場合では、当然、戒律はなきものとして破られ、「修行」とはとても言えないような世俗の生活に身を染めてゆくこととなり、はなはだしくは「その破戒こそが本当の修行」とまで言い張るひとがいるわけです。
最初にも少し触れましたけども、私はそのような世俗生活のカオスとはなるべく距離をとりたいと思っていますし、自身の理想にかなった生活を送れるような環境として、可能な限りの持戒を保てる場所が好ましいと思っておりますので、再びお寺ですごせる現在には大変満足しています。
次回の記事では、その生活環境の混沌の中で感じた問題について扱おうと思います。
コメントを残す