在家の修行者が語る記事の続きです。
しっかり仏教知識を踏まえて実践につなげている
素直に感心する記事です。
元記事はこちら(英語サイトです)
Lion’s Roar 「Buddha’s Bicycle」 BY ZACHARY BREMMER
前回はこちら!
実践の初めの時期には、戒律をルールとして厳しくこだわるのも必要です。補助輪のように、戒律は実践者の指針となり、道徳のバランスを育てます。
初めのころの実践は“道徳のデトックス”のようなものです。生活に深く根付いた悪い習慣を捨てるための毒抜きのための期間です。この時期には大抵の場合、戒律が“残酷な法律”のように感じられるため、すごく難しく感じます。時間を重ねるうちに、戒律を守る習慣が自然になり、悪い習慣が崩れてゆくはずです。
道徳というと全部「よい事」だと思ってしまいがちですが 自分勝手に作った道徳、たとえば 我慢は体に悪いからダイエット中でも無理せず食べるほうがいい とか 酒は百薬の長だから、ちょっとずつなら毎日飲んでも大丈夫 とか わけわからない自分ルールも“道徳”です。
しかし、実践が進歩するにつれ、ある問題がおこります。
これらの戒律では、もはや答えることのできない状況が発生するからです。“私はどうするべきか”という問いに対して、以前は黒か白かで答えてくれた戒律が、徐々にグレーに近づいてゆき、そして戒律が私たちを裏切ることになります。この種の裏切りがおこったときには、このシステムの奥深くの本質まで注目しなくてはいけません。
どのようなタイプの補助輪を使っていても、ある地点から先は私たちの成長を助けてはくれません。より先へと進むには、補助輪を外して自分自身でバランスをとることを学ばなければならないのです。
戒律の裏切りは実践者の間違いではなく、システムそのものが原因です。仏教倫理のなかでは、これらの戒律を“いかに適用するか”(メタレベルの分析)に関する説明が決定的に欠けています。
なにか地図のようなものがあって、この戒律をどのように運用するかを示してくれなければ、真っ暗闇の中に取り残されたようなものです。指針についての希望の光は、ゴータマの最終的な目標です。すなわち、苦の止滅と涅槃の実現です。
一人を殺せば100人助かるけど、 殺さなければ100人死ぬ場合、 どっちをえらべばいいの? という問いには戒律は答えられませんよ! ってお話です。 補助輪を外さなければ、 自転車を存分に運転できないことと同じで、 時には戒律を文字通りの意味で守り抜くことが 障害になり得る。 言い換えれば、戒律を破っているように見えても、 その目的としての修行はより高度に実現されている、 ということがありうるという優れた洞察です。 もちろん誤解されやすいので、 声を大にして言いたいとは、誰も思いません。
苦の消滅は智慧を育てることでなされます。ブッダの知恵を育てることの説明は大変シンプルです。
面倒見の良いすべての父親のように、“坐って、立って、そして気を付けて”と彼は言います。これがメディテーションの基本であり、自分自身を“迷い”に直面させる実践となります。
この誤った現実の見え方に直面することで、初めて、私たちをコントロールするその妄想を終わらせることができます。この実践をすればするほど、理解はより深まってゆくことでしょう。最終的に、十分に根付いた洞察によって、もはや自身の思いに引きずり回されることはなくなるのです。
メディテーションは、これらの迷いの状態を空に浮かぶ雲のように、ただそこにあるものとして単純に受け入れるための技術を育てる助けとなります。そして、他のすべての現象と同じように、それらが現れ、持続し、そして消えてゆくことを学びます。これがメディテーションのもたらす智慧なのです。
ここまで踏み込んだ内容を的を外さずに 説明することは難しいと思います。 わたしも見習わなければと思いました…。
私たちの迷う心についての更なる理解と最終的な目的である涅槃へ向かう持続的な努力が合わさって、戒律が通用しない場合であってもどのようなアプローチをするべきなのか気づくことが出来るようになります。
この気づきによって、戒律はもはや法律と同じ単なるルールとしてではなく、むしろメディテーションによる洞察のガイドラインであると分るでしょう。
ディーガ・ニカーヤにおいてブッダはこう言います。
道徳の観察によって智慧が生じ、智慧の観察によって道徳が生じる。……それはまるで、片手を洗うにはもう片方も洗わなければならないように……たしかに道徳は智慧と共に洗われなければならないし、智慧は道徳と共に。
道徳とは戒律のリストです。しかしそれだけでは足りません。本当に優れた行いには、どのようにその戒律を適用するかを知る確かな知恵が必要なのです。
実践のある地点の後では、智慧はもはや戒律のガイドだけとしての働きではなくなり、お互いが入れ替わりながら働きます。それはまるで、プロのチェスプレイヤーが複雑な戦略的ルールを捨てて、熟練した洞察によってプレイするように。仏教の実践者も同じです。
補助輪と全く同じように、戒律はガイドラインとして重要な役割を持ちますが、それだけで終わるものではありません。一度どうバランスをとるかを学んだあとは、それを離れることが必要です。走れるようになった後に補助輪をつけていることはばかばかしいでしょう。Lance Armstrong(自転車レースのプロレーサー)がツールドフランスを補助輪付きで走っているのを想像してください!
同じように道徳的なバランスをどのようにとるのかを自分自身で学んだあとは、厳しいルールとしての戒律を捨て、適切なときに適用すべきなのです。これがゴータマのアプローチであって彼のすべての教えを通して採用されたものでした。
彼は、“法”とは私たちの旅を助ける “いかだ” のようなものだと言いました。それは波乱に満ちた生死の海を渡るための道具であると。
しかしどんな船乗りが港に着いたとしても、同じことをするように、私たちも目的地に着いた時にはボートを置いていかねばなりません。涅槃の岸にたどり着いた時には、教えをドグマのように保つ必要はないのです。その代わりにそれを置いたままにしておきます。私たちがそれを必要としたときには必ず戻り、薄暗い森を歩く時に使う足のようにつかうべきです。
しかしながら、肝心な点は、私たちの実践をメディテーションホールから現実世界に投げ込む時―――補助輪を外して―――ルールをいったん置いておいて、実践を通じて得た智慧を毎日に生かす努力をすることです。
補助輪つけてる時と大きく変わる走り方はしないでしょうが、 確かにたまには補助輪を地面にガリガリ押し付けるような 走り方が必要な時もありますね。 日本語にして読むと、 「戒律を守りたくないだけの言い訳じゃん」 と思う人もいるかもしれませんが、 重要なことは、彼らは誰に褒めてもらうために 仏教の実践をしているわけではないということです。 しばしば日本のお坊さんがいかに戒律を守っているのかについて 誇りにするのと比べると、そこには大変な違いがあります。
優れた記事を日本語に要約してご紹介する企画です。
日本文化としての仏教に慣れ親しんだ日本人にとって
時には新鮮な発見もあるかもしれません。