日米仏教文化を比べて これからの日本でマインドフルネスが流行るのは間違いないとして 現代日本独自の形で再び仏教が注目される時はあるのでしょうか。 かなり自分勝手にお話をしましたが お坊さんとしての一つの意見として読んでください。 現場からは以上です。 |
苦しみに寄り添いたいお坊さん多すぎ問題
日本仏教の行くすえについて
日本仏教の新たな役割についてですね?
今までの日本仏教の形は、ほとんどの場合で
焦点を「苦の救済」にあてていました。
現代においては、昔ほどには
老いや病や死というものが、
日常的で無くなったため、
今までの仏教の役割が注目され難くなっている。
という話を前回しました。
それら“苦の救済”の役割ですが、
ハッキリ言って、どう見ても
供給過多です。
その“苦の救済”の代表的活動である
葬儀や法要をやりたがる僧侶は
山ほどいますからね。
重要ではありますけど…。
少なくとも、配給量と同じくらい
“苦の救済”の側面に需要があるならば
仏教に対する注目がもっと多くてもいいはずです。
では今までの“苦の救済”以外の側面で
新たに仏教の役割が生まれるということですか。
アメリカ仏教文化のマインドフルネスは、
明らかに“苦の救済”と言う側面で
受け入れられてはいません。
苦しみを失くしたい、「マイナスをゼロに」
というよりもむしろ
もっと上手に生きたい、「ゼロをプラスに」
という視点が主な物だと思います。
何に“役に立つ”のか
“楽の追求”ですか。
しかし、日本の「苦の救済」でも、
アメリカの「楽の追求」でも、
最終的に仏教が示す目標点は
“苦楽の超越(相対化)”ですから、
方便として苦を使うか楽を使うかの違いだと考えれば
「苦の救済」の対照的な役割としては
「楽の追求」でも良いかと思います。
「追求するべき楽なんてなかったんだ…」ってなるかですからね。
同じです。
いずれにせよ“よりよい人生”を求めていることには
変わりありませんからね。
つまり仏教消費者に必要なものは“納得感”です。
その納得感がどう求めてられているのか、が問われるべきです。
言い換えれば、現代日本人は何に不満足なのか。ですね。
アメリカで行われた「ゼロをプラスに」の視点が
日本独自に行われるとすれば、この“不満足”によるものでしょう。
現状があるということは、
ほとんどの人間が一応は満ち足りている。
ということですからね。
少なくとも物質的側面ではそうです。
飢え死に寸前の食糧事情だとかは現代にありませんから。
それを踏まえて現代の“よりよい人生”を助けるような
あらたな仏教が見出されるとすれば
やはり仏教の人格形成への影響が注目されると思います。
人格のレベルアップ?探求?
マインドフルネスと全く同じでもいいことになりますね?
一気に勢力を拡大するであろうことは間違いないと思われます。
しかし「人格形成に対する影響」といっても、
おそらく、アメリカと日本では求めるものの
差がいくらか出てくると思うんです。
考えてみるとそうかもしれませんが
あまり明確にイメージできません。
やはり“レベル上げ”の側面が強く出ています。
人間としてより高度な能力を持とう。ということです。
その道すじへの入り口では、仏教は単なる
「高度な能力を得るためのトレーニング」となります。
そういうトレーニング好きの文化ですから。アメリカ。
日本でも流行るでしょうけれど。
日本独自の発展が生じる可能性があります。
それはずばり、
娯楽です。
一生飽きないほどのモノ…
これは日本の特徴的側面ですが、
社会生活がひと段落つくまでは、みんな真面目に取り組む
という傾向があります。
大学卒業、就職、結婚、育児、仕事など、
どこでひと段落つくかは人それぞれですが
問題はそのひと段落ついた後です。
「とりあえずやることは全部やりました」
という実感を持つまで、ということでいいですか?
逆にいうと日本人はそのひと段落までは
かなり盲目的に社会的価値をフォローするのですが、
自分が得た社会的価値に、
ある程度の納得をした後には
自分で新たな価値を見つけに行かなければならない。
という問題が待っているでしょう。
仕事もプライベートもある程度自分の納得いく形に収まり、
とくにやりたいこともするべきことも無い。という。
しかし若者世代にも社会的価値をあえて追い求めない
“さとり世代”と呼ばれるような新志向が生まれています。
彼らに共通するのは
“既存の価値の中に、もはや求めるものがない”
という状態です。
けっこう身近に感じますが……
あまり数が多いと思ったことはありませんね。
ニュースやネットで見ている限り、徐々に増えている気がします。
それをよく考えてみると、確かに現代では
“既存の価値”に求めるものがないという状況に
非常になりやすい現状があります。
漫画もゲームもアニメも、
昔と比べれば誰でも好きなだけ楽しめますし、
“一つの娯楽を楽しむために一生かけて働く”ような必要はありません。
楽しみを手に入れるための努力よりも、
むしろ楽しいことを見つけるための努力のほうが
だんだんと大きくなってきている気がします。
お寺で修行体験!(本気の)
多様化するエンターテインメントという話題は
様々な分野で語られているものですし、
経験を提供する“体験型エンターテインメント”という分野に
仏教をいれてもよい気はします。
私がお坊さんだからそう思うだけだと思いますが……。
その可能性はしっかり存在していると思います。
もとはといえば、仏教に関わるのであれば
「レベルアップや、単なるなぐさめ」のような、
流行りの仕方で興味を持つのはちょっと無理があるんです。
むしろ「そんなものに興味はないし、必要がない」
と言うくらい、足りないものは無いはずだが、
自分個人として人生に納得がいかない
と言う人間のために仏教があるわけですからね。
“社会的価値”が手に入ったら解決するような問題は
仏教を頑張っても解決するとは限りませんし
大変効率が悪いので社会で努力したほうがいいです。
しかしその“社会的価値”を超えたものを求める時に
仏教の役割が必要とされるわけです。
そうなると、やはり注目したい入り口は
全てをやりつくし、もとめるものもなくなった者が
あえて行う娯楽にあると思います。
もちろん数は少なく限定的なモノにはなりますが。
魚川祐司さんの『仏教思想のゼロポイント』では、
お釈迦さんの悟りの後の伝道を、
“遊び”と言われていますが、
仏教のその側面に目を向けてもよいのではないでしょうか。
娯楽として見られたことは無いとおもいます。
大抵の場合、世をはかなんで…とか、
カッコいい言い方をされますから。
つまり“おもしろいことがない”んですよ。
「会社員で出世したり、幸せな家庭をきずいたり
といった一般的な価値観ではなんとなくしっくりこない」
という人は今の時代にはむしろ多くなっていませんか?
確かにノマドワーカーだったり
独身貴族や、ニートまで
新たなライフスタイルを独自に探究する人々は多いです。
自分で見つけよう、という風潮がだんだん強くなっています。
しかし、声を大にして言いたいですが、
「おもしろいことがないから
社会的価値感をはずれてみよう。」
それは仏教が、
ずっとやってきたことです。
たしかにその面で注目されるのであれば
お坊さん的には本望ですね。
娯楽としての仏教。
一見、「?」って思いますが。
既にアメリカで仏教が「ゼロをプラスに」として
扱われているのであれば、
エンターテインメント的側面での仏教が、
新たに注目を浴びてもよいと思います。
ていうかそうなってくれたらうれしいです。
山こもらなくても気兼ねなく修行できますし。
サイコーです。
みなさんよろしくお願いします。
まとめ
- “よりよい人生”のために頑張る事があるうちは社会で頑張ればいいかもしれない
- 社会的価値を一生追い求めることが出来れば、必ずしも仏教は必要ない
- もう必要な社会的価値がないなら、仏教以外に楽しい事ないかもしれない