雑記2019/06/24「普通」の生活


前回の雑記では、世間一般で言う生活と、お寺で過ごす修行生活との違いについて少し書きました。

個人的には両者の間には一定の線引きが必要であると思いますし、その線引きこそが仏教徒としての修行態度を分けるものであると感じています。

 

これはいずれしっかりと扱いたい問題でもありますが、仏教の中で、特に禅では明確な、誰がどう見ても「厄介なことになっているなぁ」と思わざるを得ない二つの問題があります。

・修行者はどうあるべきか(一般の人間とどう違うか)

・修行環境はいかにあるべきか(普通の生活とどう違うのか)

以上二点は、禅仏教史においてはそれぞれ、「受戒出家」「僧堂安居」としてある程度の規範にのっとり成立していたものですが、今現在これらの問いに答えることは容易ではありません。

 

私の見てきた範囲で考えてみると、現代ではどちらも普通の生活(者)と変わらない、と言うのが正直なところです。

出家修行者と言っても、ある程度の年齢になれば妻帯し子を設け家(寺)を守っていくべきとされていますし、事実「妻を持つ意思の無い僧侶」の肩身は狭いものです。

後者の僧堂修行をとってみても、世間で言う「職業」が「法要」に置き換わっただけで、「熱心に仏教の基礎学から学ぼう」という僧侶もほとんどいませんし、「戒律を遵守した清浄な生活をおくろう」という者も想像しがたいです。

 

一般の方々へ向けては仏教側として大変恥ずかしい現状と言えるのですけども、これはまぁ、私が僧侶になる前よりも、もっともっと前から変わらない状態なので、正直言ってしまえば、もはや僧侶個人や特定の団体の活動でどうにかなるような問題ではないのではないかな、という思いがします。

これだけの長い間続いた「伝統」であれば、日本の文化そのものだとも言えてしまう問題なので、安易に何が正しいとは言いきれないものであることは間違いがありません。

 

 

その上で、では仏教徒としての自身の進退をとやかく考える必要があるのか、なぜ業界の慣例にしたがって妻帯し寺を守っていくことを考えないのか、と問われると、それはやはり「気に入らない」からです。

上記の現状は仕方のないものだ、と言われてしまえば、それはそうなのだけれども、私は修行者個人の方向性(好みでもいい)として現状に不満を感じているので、“修行者”としては一般的ではないかもしれないが、なるべく戒律を守る努力をして生きていたいし、それは一般的な僧侶の「キャリアプラン」からどうしても外れてしまうのです。

そしてその修行生活は、世間の視点からすると単純に「異常」であるとされる面もあるでしょうから、「出家」という特殊な立場を守るために特殊な環境が必要なわけです。

仏教に理解のある国々であれば仏教修行者が「酒を飲まない」ことも「子をつくらない」ことも、「仕事をせずに坐ってばかりいる」こともそれほど目立たないことだとは思いますし、それは「そういうもの」として自然に扱われることと思います。

ただ、私自身が出家する前の感覚で言っても、現代日本においては上記の行為をあえて実践するのは、僧侶の身と言えども十分に「異常」です。

実際にはその異常性にこそ、文字通り「通常とは一線のひかれた」立場や環境があるのですけども、そういった面については、いずれ追々記事にしてゆこうと思います。

 









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