この記事は、パブリックドメインとなった『大法輪閣版 澤木興道全集』を元にして読みやすいように再編集したものです。 昭和の時代に“最後の禅僧”と呼ばれた高僧の言葉をコメントと共に紹介いたします。 |
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朗読していただきました!↓
仏道からひっぱられて、この凡夫根性のひがみが無くなり、仏道のままにひっぱられてゆく、それが信仰生活である。これが一番めでたい。そこで生活の大転換が起こるわけである。
六祖慧能(えのう)大師の弟子の永嘉(ようか)大師の書かれた『証道歌(しょうどうか)』の中に「二乗は精進して道心無く、外道は聡明にして智慧無し」とあるが、これは非常に素晴らしいことである。
二乗は声聞(しょうもん)と縁覚(えんがく)のこと。精進とは進んで退かず、善に進み、悪を止めるという勇敢なこと。すなわち一直線に勇敢に修行することである。ところが二乗は精進努力勉励するけれども道心がない。道心とは泣きむしの話の、字の置きようで気持ちが変わるのとは違って、絶対に不幸を封じ込んで絶対幸福ばかりになることである。道心がありさえすれば、一切のところに幸福があるわけである。どこへ行っても幸福である。不幸なところが無くなる。不幸な時が無くなる。道心とは愉快なものである。
ある者は「俺は実際いうたら意志の弱いやつであったが、貧乏人の子に生まれたためにどうやら一本立ちができるようになった。これが金持ちの家に生まれた箱入り息子であったら、温室の花のように世の中に出て、もまれたら、へなへなになって一遍にしぼんでしまう。これは貧乏のおかげである」という。 命を懸けて、まさに一所懸命という心もちで行って、はじめて 生まれてきたかいがある、ということを言っています。 「二乗は精進して道心なく」―。二乗はどれだけ努力しても、自分だけ楽をしよう、自分だけ再び生死界に迷わないようにしようと、自分だけのための精進であるから、道心がない。 自分のためだけにできる行いなんて少ないものです。 同僚を助けたほうが仕事が早く終わって自分も助かるように 自分も他人もなく、一番善い事をするところに道心があります。 「外道は聡明にして智慧無し」―。外道とは仏教以外のもろもろの邪見である。近頃の言葉でいうと、思想が右とか左とかいうが、これが邪見である。自分の学んだ学問のために、だまされるのだから度し難い代物である。 それが原因で生じる問題で自分がまた苦しむことも多いです。 禅僧は昔からこのような形で本質を人に伝えたがるので わけわからないかもしれませんが、禅僧の送った その白紙になり切ることで、彼の言いたいこともはじめてわかります。 ここで“何も書いていない手紙”の意味を頭で考えようとすると ドツボにはまってわかりません。 次に続きます!
またある者は「おれみたような馬鹿な者が、親が学資金を出してくれたので、肩書もつけてどうやら飯も食えるが、これは学資金のおかげである」と喜ぶ。
こうして道心がありさえすれば、いずれを向いても喜ぶことが出来る。災難が来たら、ここが鍛錬のしどころである。男一匹こういう時に鍛錬しなければならんという気持ちになる。軍歌に「ここぞ命の捨て所」とあるが、男一匹ここぞ命の捨て所とウンと頑張る。男として痛快な、生まれ甲斐のあるわけである。
道心とは、私とあなたとぶっ続きの要領を飲み込むことである。この要領が飲み込めたら道心が起こるわけだ。大抵の者は、あなたのためでなく、自分のためにばかり、ぶすぶす考えている。人知れず人のために考えてやろうというような者は無い。
たまには恋人のために人知れず考える人はあるが、大概はおのれのためで、他人のために考えるなぞということは滅多にない。恋人のためでも、慣れたらそんなことは考えなくなる。大概の場合わが身だけのためである。これが二乗である。
昔ある人が禅僧から手紙をもらった。開いてみると白紙が一枚入っている。いくら透かして見ても何も書いてない。そこで、その人は、この白紙を「万里同風(ばんりどうふう)」とよんだ。お互いさまというわけである。
この白紙になり切るには聡明ではいかん。いくら聡明でも、いくら精進してもいかん。智慧がなければいかん。
われわれ人間には、この智慧と道心がいる。道心を福と言い、智慧を徳と言う。この福と徳がなければいかん。
声聞は、説法を聞いて悟り、縁覚は仏の教えを聞かずに縁を観じて悟ります。
共通して、人に法を説いたりはせず、自分の悟りのためだけに修行する者のことですね。
道心(どうしん)は“菩提心(ぼだいしん)”とも言って、
仏道を志す心のこと、と一般に言いますが、
じっさいは結構複雑な言葉なので
とりあえずは「道を歩こうとする心」くらいの感じで読んでください。