禅僧の言葉②:仏にひっぱられる


この記事は、パブリックドメインとなった『大法輪閣版 澤木興道全集』を元にして読みやすいように再編集したものです。

昭和の時代に“最後の禅僧”と呼ばれた高僧の言葉をコメントと共に紹介いたします。

記事を朗読していただきました!↓

前回はこちら

に、こんな話がある。ある人が年賀に行こうと思って門口に出た。門松のところに来るとそこに泣きむしが一人泣いていた。
「あらら、あんなところに泣きむしが泣いている。縁起が悪い。元旦早々泣きむしを見た。もう年賀はやめだ、羽織も袴もいらん、もう今年は駄目じゃ。一つ口直しにお寺へ行って和尚さんと遊んでこよう。」
そこでびっくりしている妻君にふだんの着物を出させてお寺に行った。
「和尚さん、今年は縁起が悪い。元旦早々から門松のところで泣きむしが泣いておりましたんや」
「泣きむしが泣いていた。それでどうした」
「こんな縁起の悪いことはない。今年は正月はやめです」
「それは何でじゃ」
「縁起が悪いじゃありませんか、元旦早々泣きむしだなんて」
「いやそれは面白い。めでたい」
「何がめでたいのです」
それから和尚が良い歌を作って聞かせた

七福に 貧乏神が追い出され 門のほとりでわいわいと泣く

 ウワッ、エライ。これはめでたい。なるほど、家で妻も心配しておりますから、じゃさそっく帰ってそれを聞かせてやりましょう」と飛んで帰ってきて
「おい、泣きむしはあれはめでたいぞ」
「何を言ってるのや」
「いやめでたいのや。今お寺の和尚さんに聞いて、喜んで帰ってきた。こういう歌だ。七福が貧乏神に追い出され門のほとりでわいわいと泣く。めでたいだろう。」
それが何でめでたいのです
「めでたいじゃないか、七福が貧乏神に追い出され、門のほとりでわいわいと泣く」
「ちっともめでたくはないですよ」
「何を言うておる……七福、貧乏神追い出され、門のほとりでわいわいと泣く……おや?なるほどこれはめでたくないぞ、和尚から一杯食わされた。だんだん縁起が悪い。和尚に談判してこよう」とまたお寺にきて
「和尚さん、あまり馬鹿にしなはんな、ちょっともめでたくないじゃありませんか…七福が、貧乏神に、追い出され、門のほとりで、わいわいと泣く」
「何を言うておるんじゃ、あんたそれは、が、と、に、の付け所が間違うておる」
「そうですか、和尚さんもう一度言うてみてください」
「七福に、貧乏神が、追い出され門のほとりでわいわいと泣く」
「なるほどそうじゃ、かかあのやつが誤魔化しやがった、ちょっと何かに書いてください。間違うといかんから……」
それから和尚が手紙に書いてやった。これでめでたい正月をしたという話がある。

本寝坊主
澤木老師の話に出てくる人って、結構やばい人が多いです。

でも、よく考えると人間って皆、よかれあしかれこんなもんですよね。

れはほんのあたりまえの話であるが、実際人生というものが、めでたいものか悲しいものか、人生食うために坐禅するのか、坐禅するために食うのか、食うために念仏申すのか、念仏のために食うのか、ここがわからない。肥前の国の七十になるある爺さんが、「貴様食うために働くのか、働くために食うのか」と私から言われて、こういう恐ろしいことは、かつて無かったと言った。

うためにはたらくのか、坐禅するために食うのか、食うために坐禅するのか、ここの往復にどえらい違いがある。例えば食うために念仏申す念仏業の人がある。私の知っている河内の国のある坊さんは「和尚さんおはようございます」と人がやってくると、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と言って通る。遠いほうへ行ってしまうと鼻歌を歌ってゆく。職業意識が多分に働いている。これは食うために念仏申すのである。そんなことを法然上人(※浄土宗の開祖)は教えていない。念仏申すために今日は生きておらなければならん、と教えられている。我々は坐禅のために、祖師道のために、本当に生きた生き方をするために、食わなければならんし、学問もしなければならんし、いろいろの生活をしなければならん。

本寝坊主
働くために食べるのか、食べるために働くのか、これは現代人にとっても

とても胸に響くことばですね。澤木老師みたいな恐い人に

こんなこと言われたら確かに恐ろしいです。

特に今まで考えたこともなかった、という場合はより恐ろしい思いをしたことでしょう。

はいつも「棒を一本引いて、これで仏さまと私と引っ張り合いをしている」という。どちらが強いか。仏を引き入れて、こっちの餌としようとするのが凡夫(※仏ではない人間、普通の人)澤木である。どちらへ引っ張るのが本当であるかというのが仏法の根本問題である。大抵の場合は、澤木そのものが偉くなろうと思うことが多いのだ。澤木が偉くなろうとするのだ。澤木の内容を豊富にして、人間の中で押し合いをして、押しも押されぬ人間になろうと思う。こういう気持ちで学問をしよう、修行をしよう、戒法を保とう、嫁さんも持たず精進物(※精進料理、肉やネギを使わない。)で澤木の内容を豊富にして、押しも押されもせぬ凡夫を作ろうと思うのだから、とりもなおさず妄想である。妄想であるから、どれだけ偉くなっても、利口になっても、たとえ一切経をそらで読んでもつまらんことだ

本寝坊主
澤木老師は自分の凡夫の面を隠さずに語りました。

正直な人間としての姿を隠さないところも魅力の一つです。

澤木老師ほどの修行者であっても、エラくなってやる!という

妄想からは抜けられない現実にどう対処するか、そこが仏道だということです。

ころが、その反対に澤木が仏法からひっぱられる。こいつは坐禅も嫌だ仏法も嫌いだと言っても、どうしても仏法のほうへ引っ張られる。ちょうど牛が鼻をひっぱられるように仏法からぐんぐん引っ張られてゆくのが、善い因縁とかありがたい因縁とかいうのである。道元禅師の『正法眼蔵』の「生死(しょうじ)の巻」という書物に「ただ、わが身をも心をも、はなち忘れて仏の家になげいれて、佛のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆく時、力をも入れず心をも費やさずして、生死を離れ仏となる」とおっしゃられている。これがすなわち仏道の根本問題である。澤木がひっぱるか、仏がひっぱるか、どちらがひっぱっているかという問題である。ただ頭を剃ったから仏道に入ったというわけではないし、精進物で飯を食ったから仏道というわけではない。嫁さんを持たぬから仏道というわけではない。それは芝居で念仏申すのと同じだ。「おのれ覚悟はよいか」「南無阿弥陀仏」これは宗教とは何の関係もない。

本寝坊主
人間の行いを根こそぎあきらめる、

エラくなろう上手くやろうを捨てて、

初めて仏のあり方に任せることができる、という「生死の巻」の引用です。

修行は見た目ではなく内容がすべて、ということですね。

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