“戒律”とどのように向き合うべきかを
筆者自身の経験からくるであろう深い洞察にもとづいて
しっかり説明しています。
何度も言いますが、お坊さんでない一般の人が
これほど深く仏教を理解、実践していることが
素直におどろきです。
ただ、日本でこんなこと言ったら、
いろいろな人にめちゃ怒られるでしょうね。
元記事はこちら(英語サイトです)
Lion’s Roar 「Buddha’s Bicycle」 BY ZACHARY BREMMER
シッダールタ(※お釈迦さん)は「道徳的な責任は(Dukkha、苦)を防ぐことの重要な手段となる。」と教えました。
しかし、Zachary Bremmerはこういいます。「5つの戒法(Wikipedia)にしがみついているとそれが防ぐよりも大きい苦しみを生むこととなる。しがみつく代わりに、私たちは5つの戒法に対して実践を助ける補助輪のように接するべきです」
Buddha’s Bicycle
5月のまぶしい朝、私は当時6歳の自分自身に約束をした。
擦り傷だらけのヒザで、手のひらについた砂利をとり、僕は長男だから弟だけには見つかりたくない、と思いながら朝食に向かった。
朝食を食べてから、人生で最も神聖なお辞儀をしながら “夏の終わりまでには…それまでには補助輪なしで乗れるようになる。まるでもともと二輪で走るために乗っているかのように上手に乗れるようになる。” と誓った。
可愛い子供の姿が目に浮かびますね。
その後三か月の間、会計士が財務処理の時期に働くよりも、ずっと多くの時間を私は練習に費やした。
ペンシルバニアの37度を超える熱気、ぼやける太陽に100%の湿度から、強烈な雷と暴風雨まで、そのすべてを私は耐えきった。
私の目標はすでに決まっていたし、何も私の道のりを邪魔できるものは無かったのだ。八月に入るまでには私は、“もうこれ以上は、一分でさえ練習することはできない” ほどの気分になっていた。
すべてのパワーは研ぎ澄まされ、過去数か月間の、このファイナルテストにむけた努力を思いだした。準備はできた。
一番初めに補助輪を外した時は悲惨だった。
わたしはわずか5フィートの距離を走り切り、焼け付くアスファルトに顔面から倒れた。少しみすぼらしい服になったが、不屈の精神で立ち上がり、服を手で払って自転車に再びまたがった。
一度よろけたくらいでは倒れたりはしなかった。しかし驚くべきことではないが、その一度が二度になり、そして三度目になり、四度目になる。残りの午後の時間はそんな風にして費やされた。夕方の終わりには私は完全に落胆し、タオルを投げ込む準備ができていた。
(午後一杯練習したのに、結局これか?)
自慢できるようなものは何もなかったが、いくつかのひどいスリ傷と破けたジーンズだけが残った。
いやいやながら私は自分自身に言い聞かせた。もう一度だけ、あきらめる前に最後に挑戦しよう。
それが起こったのはその時だった。
私はこの瞬間が起こった、あの日をはっきりと覚えている。
それは、まるで何かが私の中でカチッっと音を鳴らしてハマったようだった。
今までの努力と苦しみとフラストレーションの後に私はついにやり遂げたのだ。
わたしは二つの車輪の上で自転車をこいでいた!
アドレナリンが体中を駆け巡り、あれほど興奮したのは初めてだった。緩やかな風が顔をなで、喜びのさけびが口からとびだした。
あの日を振り返ると、あの夏が教えてくれたのは自転車に乗ることだけではなかった。私は、実践がじっさいに結果を生み出すのだと、この人生のすべての側面での真理を学んだのだった。
ゴータマ・シッダールタ、ブッダもまた、実践の重要性に気づきました。そしてまた、私の両親と同じく、この実践を助ける補助輪を持つことの大事さに気づいていたのです。彼が用意した実践への補助輪は“五戒”です。これらの戒律はすべて、とても基本的なもので多くの場合に対応することができます。
この種のシステムを僧侶ではない実践者へ提供することで、彼らの生活のなかで戒律との関わりを持って生きる能力を養い、僧堂で思い切った修行生活をすることなく実践の利益を得られるようにしたのです。
とても珍しいことだと思います。 日本ではやはり戒律は神聖なモノなので それをあくまで、補助的とする考えは あまり聞かない論旨です。
ゴータマの説示した五戒は次の五つの慎みを必要とします
- 不殺生:ふせっしょう(命を取らない)
- 不偸盗:ふちゅうとう(与えられていないものを取らない)
- 不邪淫:ふじゃいん(みだらな性行為をしない)
- 不妄語:ふもうご(誤った話をしない)
- 不飲酒:ふおんじゅ(酒を消費しない)
これらの具体的な戒律の理由はとても単純で、これらすべての行いは苦を招くからです。
つまり、この戒律の目的は、自分と他人を苦しませる行為がもたらす不幸を治療するためだといえます。これは実用的には簡単に理解できます。
例えていうならば、酒に酔いすぎて、銀行強盗をしようと決めさえしなければ、牢屋で苦しむこともありません。
戒律を持つことはこのような直接的な苦しみを防ぐことができるのです。
戒律の素晴らしさは、よりささいなレベルでも発揮されることです。
戒律の役割が、実践においての未熟な行いを避けることで外側から自分自身を変えるだけでなく、同時に、目立たない自分の内面の構造、ある状況に対して、どのように考え、どのように反応するのかをも変えることが出来るのです。
日常的に自分自身の欲求に従っていたら、私は確実に苦しむでしょう。なぜならミックジャガーが言ったように、I can’t always get what I want(私の欲しいものはいつも手に入らない)からです。
しかし、もし私がこの満足することのない欲望に振り回されないことを選ぶのであれば、私はこれらの感情を取り扱う全く新しい方法に気づくことになります。
食べ物や、飲み物、対象に対しての反応する必要のない欲望に気づくことになり、それらをつかもうとする永遠のサイクルに、もはや支配されることが無くなります。そして、むしろ単純に“自分はこの欲望を抱いた”と気づくことで、それを気にかけずにそのままにしておくことが出来ます。
だからこそ、「ダメ」と言われて初めて それを求めている自分に気づくことが出来ます。 そしてそれに従うことを選ばなくても たいして問題ないと学ぶことになります。 「禁止されたことをやらない」という行為と 「やりたいという思いを気にしない」という内面を 同時に変えてゆくことを指摘しています。
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優れた記事を日本語に要約してご紹介する企画です。
日本文化としての仏教に慣れ親しんだ日本人にとって
時には新鮮な発見もあるかもしれません。