前回はアメリカ仏教界で、ドラッグ肯定派ではなく、警告を促している側を見てみました。
要点を掴みたいかたはまとめをどうぞ。わかりやすくなっています(↓↓)
元記事はこちら(英語サイトです)
Lion’s Roar 「The New Wave of Psychedelics in Buddhist Practice」 BY MATTEO PISTONO
Burning Down the House
サイケデリックスの使用には強い警告と懸念があるが、なぜ仏教指導者の中には公式な仏教の実践においてサイケデリックスの使い方の提案をしたり、サイケデリックスを使ったリトリートを開いていたりする者がいるのでしょうか?
簡単な答えは、サイケデリックな物質の効果〔実践者の精神的健康と、仏教の教えへの深い洞察を加速させる〕を確信しているから、です。
禅の指導者が言うように「大心」について読んだり、チベット仏教の指導者が言うように、「心の本性の広い明晰さにおいてくつろいでいること」について、それらは瞑想修行の20年後でさえ私にとっては単なる概念だった。
私はサイケデリックスを使用したとき、以前は哲学的な考え方しか経験していなかったことに気づきました。サイケデリックスの経験は、仏法へのさらに強い献身(devotion)を与えてくれました。
チベット仏教を勉強しているBay Areaの禅の指導者は言いました。
長年実践してきたひとでも、仏教の教えは「概念」にすぎなかったと語っています。 そのあたりのことはドラッグ経験者しかわからないところですが、 ドラッグを使って仏教の理解が進んだと答える人が多くなったからこそドラッグの使用が注目を浴びているのですね。
西海岸の別の禅指導者は、サイケデリックスを経験する中で、さまざまな社会的役割 (娘、パートナー、学生、指導者、仏教センターの管理者) を経て精神的に自己を構築した方法を自覚的にふりかえり、 それらのすべてが、完全に取り除かれた経験をしました。
そして残っていたのは一種の無邪気で、すべてを新鮮に知り、そしてそれはすべての条件づけられた役割から解放された、まるで子供のようなものでした。
しかし、最も意味のある経験はサイケデリックスの効果が消えた時に訪れました。
最終的に、その無垢の場所から、自分の役割である仏教の実践者と指導者に戻ったが、
自分が以前に存在したように再構成されたことはなかった。
この経験は何年も前に読んだダンマパダの一節を理解させてくれた。
わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経て、めぐって来た、
――家屋の作りてをさがしもとめて――
あの生涯、この生涯と、くりかえすのは苦しいことである。
家屋の作りてよ!汝の正体は見られてしまった。
汝はもはや家屋を作ることはないであろう。
汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。
心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。
サイケデリックスが仏教的な洞察を加速することができるという認識は、それを使用する新しい世代の仏教指導者の間で共通の認識です。
テーラワーダ、インサイト、禅、密教でのそれぞれの実践に対する方法と深い敬意はあるが、サイケデリックな旅は、以前は知られていなかった洞察と理解を促進させています。
Zen Mountain MonasteryとZen Center of New York City のShugen Arnoldは慎重です。
「私たちの文化が、非常に強力な経験を求めるという点において疑問があります。その経験が私たちを救うことを願っています。」Arnoldは説明します。
「人々は仏教でもショートカットを探しています。彼らは「道を早めたい」と思っていますし、ある人々はサイケデリックスがその助けになることを望んでいます。 しかし、これらの影響は私たちの文化の中に非常に浸透しているので、慎重であることが妥当です。」
しかし、Washamは納得していません。「長年仏教を実践している者は、長年をかけて仏教を学んだ後となると、もはや成長していないと思います。さらに、彼らは進歩が止まっていて、しばしば心の中にこだわりがあります。 サイケデリックな物質は、それらをシフトさせる衝撃を与えます。」
カリフォルニアの禅指導者は同意しています。
仏教の実践では、私たちは絶えず心の深いレベルを指し示す必要があります。だから私たちは「人生とは何か?」「私は誰か?」と問いかけなければなりません。
サイケデリックスの使用は、「この人生は私たちが思うようなものではない。」と心が理解するのを助けます。
サイケデリックスは必ずしも「これはそれである」と答えるわけではありませんが、少なくとも、「それは私たちが思うものではない」ことを指摘します。
サイケデリックスは、素敵できれいにパッケージングされた実践に自己満足している人々に対して、好奇心の扉を開いてくれます。
Lama Urgyenはサイケデリックスに答えがないことを示唆しながら、他のサイケデリックス指導者の考えに同調します。
ブッダの道は、私たちを何も名付けられない場所に導いてくれます。そして、サイケデリックスもその能力を持っています。
より強引な方法ではありますが。どちらの場合でも、何かについて明確なことを言うことができない、言葉にはできない場所に到達できるかもしれません。それ自体が自由の一つの形だと思います。
何年やっても結局仏教を本当の意味で理解しているのか、自信がない。
そんな人を対象にドラッグは流行っているのかもしれません。
まとめもどうぞ!わかりやすくなっています(↓↓)
優れた記事を日本語に要約してご紹介する企画です。
日本文化としての仏教に慣れ親しんだ日本人にとって
時には新鮮な発見もあるかもしれません。