【漫画レビュー】志乃ちゃんは自分の名前が言えない:「問題」ではなくなること


*ネタバレが含まれています!注意!

 

今回は、押見修造さんの『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』を紹介します。

まずはあらすじ(↓)から

“普通になれなくて ごめんなさい”

ヒリヒリ青春漫画のマエストロが贈る、もどかしくて、でもそれだけじゃない、疾走焦燥ガールズ・ストーリー。
“自分の名前が言えない”大島志乃。そんな彼女にも、高校に入って初めての友達が出来た。ぎこちなさ100%コミュニケーションが始まるーー。いつも後から遅れて浮かぶ、ぴったりな言葉。さて、青春は不器用なヤツにも光り輝く……のか?

 

2011年の作品ですが、今年7月には映画が公開されて話題になった作品です。

 

仏教について話すサイトなのに「なんで、漫画なの?」「しかも仏教と関係ないやつじゃん」って思う人もいるかもしれません。

しかし、この作品については関係大アリです。

 

今回その関係についてお話してみようと思います。

 

もちろん普通に読んでも面白い作品ですが、仏教的な視点で読んで見ると、また別の視点が加わって面白くなるのではないでしょうか。

難しい用語は使いませんので是非ご覧ください。

 

吃音という「問題」

 

まず「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」というタイトルは主人公の志乃が「吃音」であるところからきています。

 

「吃音」とは一般的には「どもり」と言われることもありますが、差別的意味合いを含むという理由で現在は「吃音」というワードを用いているようです。

 

みなさんの周りにも一人はいるのではないでしょうか。

 

 

「吃音」とは、会話をしていると突然

ぼ、ぼ、ぼ、僕は~」

・・・・・・・ァイスが食べたい」

 

など、ことばを何回も言ってしまったり、ことばが出てこなかったりする症状です。

 

実は僕自身も吃音をもっているため、共感できる部分は数多くありました。

 

この本の中で書かれているような、クラスメイトの前での自己紹介や朗読なんて、本当に地獄です。

 

本当に自分の名前すら言えないのです。

そんな状態で思春期を過ごせば、多少なりとも性格や考え方に影響が出てくることは想像に難くありませんよね。

 

この漫画はそこから生まれたコンプレックスをいかに解決していくか、という物語です

 

 

「問題」への関わり方

 

ここまで一見すると、仏教とは関係なさそうな話ですが、一つ注目すべき点があります。

それは、主人公のとった問題解決の方法非常に仏教的であるということです。

 

 

物語の最終話で、主人公である志乃は自分の吃音という「問題」を解決します。

 

通常、「問題を解決する」というと、どのような方法が思い浮かぶでしょうか。

 

おそらく、「問題」が有る状況から「問題」が無い状況にという解決策がほとんどだと思います。

 

例えば、「デートがしたいけど、相手がいない」という「問題」があれば、「デートしてくれる相手を見つける」ことで「問題」をなくそうとします。

 

結果、うまく相手と約束をとりつけて、デートが出来れば、問題が解決されたということになります。

 

このように、一般的には、「問題」を取り除くことが解決とされます。

 

 

志乃の解決法

 

しかし、作中で最終的に志乃が得た「問題の解決」は少し独特なものです。

 

仮に、彼女にとって、吃音という問題をなくす有効な方法があれば、一般的な問題解決の方法と同じように、吃音という問題をなくすための努力をしたでしょう。

 

しかし、作中で志乃が得た最終的な解決は、吃音という「問題」がなくなったこと、ではなく、「問題」ではなくなったことだったのです。

 

ことばにすると微妙な違いですが、この違いはとても大きいものです。

 

さきほど、挙げた例でいうならば、「デートがしたいけど、相手がいない」という「問題」に対して、

前者は「相手を見つけ」て解決しようという姿勢ですが、

後者は「相手がいないこと自体を受け入れる」姿勢であるといえます。

 

つまり、「相手がいない」という現実そのものを受け入れたら、「問題」そのものが消えてしまった、ということです。

 

外からみたら、「デートする相手がいない」という現実は変わりません

 

しかし、現実をそのまま受け入れた本人にとってはすでに「問題」はない

 

ここでの問題解決はそのような状態のことを言います。

 

 

この例えですと分かりにくいかもしれません。作品の中の実際のシーンを見てみましょう(↓↓)

 

私はッ 自分の名前が言えないッ

くやしいくやしいくやしいッ‼︎
どうして私だけ⁉︎
どうしてッ‼︎
不公平だよ‼︎!
喋れさえすれば…
喋れさえすれば私だって…

吃音という「問題」さえなくなれば、私はみんなと同じようになれる。

 

望んでいないのにどうして私だけが苦しまなければならないのだろうか。

 

切実な思いから発せられたことばですが、この時、志乃は「問題」がなくなってほしいと願っていました。

 

でも
追いかけてくる
私が追いかけてくる
私をバカにしてるのは
私を笑っているのは
私を恥ずかしいと思ってるのは
全部私だから

私は…
私…は…
おっ
おっ


おっ
おっ
…大島志乃だ
これからも…
これがずっと私なんだ

ここで志乃は、視点を大きく転換させました。

ここで志乃が得たのは、吃音という問題の解消ではなく、問題だと思う自分の意識の解決です。

 

それは、「問題」を取り除こうとする問題意識ではなく、吃音を「問題」であると言っているのは誰か、という視点です。

 

 

そしてその犯人が、他の誰でもない「」であると気づいたときに、志乃にとって吃音は「問題」ではなくなったのです

 

別に吃音自体がなくなるわけでもありませんし、うまくしゃべれないのは今まで通りです。

 

しかし、志乃は知っています。

 

吃音は最初から「問題」ではなかったことを・・・・・・

 

 

「ありのまま受け入れる」ということ

 

仏教的にいえば、志乃は吃音という「現実」を「問題」にせず、ありのまま受け入れた、ということになります。

 

ここで注意しなければならないのは、

吃音があることをやせ我慢した」や「吃音があったから友達と出会えた」・「この吃音のおかげで勇気が持てた

という話ではないということです。

 

仏教の「ありのまま受け入れる」態度とは、都合のよい物語を新たに作り上げて、吃音を受け入れることではなく

自分の持つ「吃音」が、自分が問題にしていた今まで通りの「吃音」でなくなることによって自然に受け入れられる、という態度のことです。

 

お坊さんたちが頻繁に使うことばですが、突き詰めていくと一般的な理解と、かなり隔たりが生じているように思います。

「ありのまま」を受け入れることは、お坊さんが法話で簡単に言っているほど簡単じゃないですよね。

 

 

 

この漫画で使われた仏教の理論的な話はこちらです(↓)

 

 

まとめ

  • 志乃ちゃんの吃音への関わり方はとても仏教的!
  • 「問題」がなくなるのではなく、「問題」ではなくなること



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