「我」の問題:世界の独在論的存在構造(永井均)の付論について


哲学者、永井均さんの『世界の独在論的存在構造:哲学探究2』についての感想です。

感想といっても、内容そのものではなくて、本の最後にある付論についてです。

この付論は、仏教やインド思想の無我・真我説を著者の<私>の哲学をベースにして論じています。

永井均さんは近年、仏教にも関心があるらしく、本の中で触れるだけでなく現役の僧侶の方々とも対談をされて、書籍も出されています。

付論の中では、無我説の無意味さを語り、そのあとインド正統派の言う真我の教説と仏教の無我の教説を、ともに現代に復活させようとしています。

 

無我説の無意味さ

 

まず、著者は仏教の教えの中核として見られている無我説について、批判的な視点でその無意味さについて語っています。

 

無我説はさまざまな説かれ方があるが、そのほとんどがあたりまえすぎて現代的には意味をなさないとします。

 

ここでは主に無我説が古代インドで行われていた仏教とインド正統派思想との対立には有効であったが、その対立図式をそのまま日本に持ち込んでいることが問題であるとしています。

 

現に僕自身も仏教を学び始めた時にはそうでしたが、現代人からすると無我の教えは意味不明な主張に聞こえる時があります。

 

付論の中では、一般的に説かれる無我の説明や、魚川祐司さんの著作(『だから仏教は面白い』)を引いて、仏教的な意味では無我説は常一主宰の実体我を否定したものであるとします。

 

そして、どのくらいの現代人が永遠不滅ですべてをコントロールできる「自我」をリアルなものとして信じているのか問うています。

 

そしてそのような人は現代日本ではほとんどいないため、無我説は現代の日本において大きな意味をなさないとしています。

 

 

実は仏教用語にはナイーブに扱うと現代的な用法で使われている言葉と齟齬を起こしてしまうようなものもあります。

 

付論の中でも出てきますが「実体ー属性」関係などがあります。

 

仏教は「自我は実体として存在しない」など「実体」を否定する思想傾向が見られます。

 

しかし、著者は主語―述語形式で記述される以上、文法的ー論理的概念としての「実体」は認めなければならないとしています。

 

これに関しても現代人の私たちは仏教の主張よりも、著者の指摘することの方が納得しやすいと思います。

 

仏教において「実体否定」とは、単に認識できる現象の中に「永遠不滅の絶対存在」か、「永遠の無」がないことを意味します。

 

つまりこの意味において、生滅するものは存在するのです。

 

これは別に一般的な世界観を否定している訳ではなく、むしろ現代のわたしたちが見る世界そのままです。

 

現代人は認識できるものが永遠に存在し続けるとか、永遠に存在しないとかで議論することはまずありません。

 

そしてこれは文法的ー論理的概念の「実体」を主張する側とほとんど同じことを言っています。

 

(現代でもあえて仏教が「実体否定」というワードを使うのは、凡夫に対する実践的な問題が関わってくることがあるからだとは思いますが。)

 

こう見ると、著者の言うように仏教の伝統的な言説を現代にそのまま当てはめることは確かにあまり意味がないように見えます。

 

無我と真我の教説を救う!?

 

ほとんど意味をなさないとした無我説ですが、筆者は宣言をします。

バラモン教の真我の教説とともに!―救い出して擁護する道筋を見出したいと思っている。私見では無我も真我もその道筋以外に救い出す方法が―それどころかその意味を理解する方法も―ない

現代的には全く無意味になった無我説(真我説とともに)を救い出そうというのです。

そしてそれは、筆者の<私>の哲学によって行われる流れとなります。

 

従来の無我説は、誰の自我にも当てはまるというもの(平板な世界解釈)でしたが、ここで問いの視点を変えるべきであるといいます。

 

つまり、「他人の自我と私の自我」という場合に、着目すべきは「自我」ではなく、「私」の方であるということです。

この世界には数えきれないほどの五蘊が存在しているはずだが、そのうち実際に感じられるのは一組だけである。そして、実際に感じられるその一組が、すなわち私である。

説明の細かい所は付論を読んでいただきたいのですが、簡単に言うのであれば、私は私と他人を区別するときには自分の持つ独自の属性を一切使わず区別しているということ。

 

使うのは属性ではなく、実際に感じていることそのもの。

 

この問いの違い、視点の違いによって、無我説の本当の意味がわかるといいます。

 

無我説(真我説)の本当の意味

<私>の存在は科学的であれ、歴史学的であれ、この世界の客観的事実を超えた超越的な存在なのである

<私>は、本質的に属性を持たない(持てない)空っぽの存在であって、誰かや何かであることができず、ただこれであるしかない。

 

いくら言葉を尽くしても語ることができず(神秘的な意味ではなく)、その意味で実在もしていない(実在という形式に乗らない)。

 

そういう<私>こそが、バラモン教の「真我」、仏教の「無我」の本当の意味であるとしています。

 

つまり、真我は属性を持たないがゆえに無我である(真我=無我)、という主張になります。

 

所感

 

ここまで読んできて個人的に興味深かった点に触れたいと思います。

 

無我と真我の誤解(自己誤解)

無我と真我、この二つの誤解はなぜ生まれたかというと、筆者によれば平板な世界解釈の内部にそれを位置づけてしまったためであるといいます。

超越的事実を平板な世界解釈の内部に強引に位置づけることは、一般に宗教というもののもつ特性の一つ

超越的事実を「勝義」、平板な世界を「世俗」とするのであれば、真我(=無我)という勝義を、世俗にそのまま引きずり込んでしまった、ということになります。

 

前々から思っていたことですが、この区別をしっかりすれば仏教は断然わかりやすくなります。
(インド哲学と仏教の対立もこの構造で互いに混乱しているところがあるように見えるときがあります。)

 

宗教一般の特性と指摘していますが、曹洞宗でも「修証一如」といって証(悟り)と修行は一つで等しい、という教えがあります。

 

個人的に「修証一如」の主張は正しいと思いますが、証という超越的事実を客観的事実の範囲内にのみ適応される概念に引き込んでしまうことには注意が必要だと思います。

(誤解はないかとおもいますが、「超越的」に神秘的なニュアンスは一切ふくまれていません。)

 

統覚について

意外とスルーされてしまいそうな面白い所として「統覚」の話がありました。

 

一人の人間のまとまった意識が成り立つために必ず必要だとされた、統覚の働きが存在しなくても、あるいはしなくなっても、<私>の存在を阻害するものでないということです。

 

「無我でも統覚があるがゆえに、我から逃れられない、この矛盾こそが仏法なのじゃ・・・」

 

というような説法を聞いたことがありますが、実は全く矛盾していないことがこの付論からわかります。

 

統覚があろうが、なかろうが、無我なのです。

 

言い換えれば、統覚を乗り越えているものが<私>であり、無我である真我なのだということになります。

 

ここで思い出されるのが、インド正統派のサーンキヤ哲学です。

 

サーンキヤ哲学は、この統覚と真我の関係について似たような発想をします。

 

簡単に説明すると、真我とは物質原理(プラクティ)に属する六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)の上にある統覚(ブッディ)をさらに乗り越えた、世界外の精神原理(プルシャ)であるとします。

 

世界外にいるということは、付論でも言われていた通り、世界の内容に関与していなかった事実に気づくことになります。

 

サーンキヤ哲学的で解脱(悟り)とは、解脱するのではなく、すでに解脱していたことに気づく、もしくは最初から解脱なんてなかったことに気づくことになります。

 

真我は統覚とはまったく関係のない超越した存在であるという点において、<私>論とよく似ています。

 

ちなみにサーンキヤ哲学の影響を受けたといわれる仏教の唯識も(真我は否定しますが)、統覚に似たものを立て、それを乗り越えることが必要とされているので、その点では共通しています。

 

修行と主体について

 

瞑想や坐禅に関する主体の問題は、『〈仏教3.0〉を哲学する』でも語られていましたが、この付論でも語られています。

 

仏教用語の一般的解釈とのズレが提示され、「気づき」があるのに無我であることは通常の言葉遣いでは語義矛盾なのだ、と指摘しています。

 

しかし、最終的には「気づき」があるためには無我でなくてはならない、としています。

気づきがある(マインドフルである)のに無我であることは通常の言葉遣いでは、語義矛盾だと言ったが、むしろ、気づきがある(マインドフルである)ためには無我であらざるをえないわけである。

世界そのものと一致した、だれでもない私だけが、マインドフルでありうるからだ。

 

ここは修行論とも関係してくると思うのですが、一般に無我をしりたいから修行(気づきやマインドフル)しようと考えると思います。

 

しかし、ここで言われていることは、無我でなければ修行できない、ということに等しいのです。

 

一見おかしいように見えるかもしれませんが、この主張はある意味では正しいものだと思います。

 

もっと言ってしまえば、仏教の修行とは、本来的には悟らないと修行そのものができない構造であるということです。

 

例えばブッダが最初に説法した初転法輪で、五比丘の中のコンダンニャがその説法を聞いて預流果を得たとして知られています。
(ブッダは「コンダンニャは悟った」と歓喜の声をあげたことで有名)

そして、悟ったコンダンニャは”その後”梵行を修するために出家を願い出ているのです。

このケースは仏典の中でよく見られます。

 

つまり、悟ってブッダの言わんとすることがわからない限り、本当の意味での修行(気づき・マインドフル)もわからないということになっているのです。

 

禅では「悟後の修行」なんていわれますが、むしろそっちが本当の修行になるのだということです。

 

まとめ

(仏教的かどうかはさておき)個人的には筆者の「真我=無我」の主張に関しては全く異論ありません。

 

むしろ旧態依然の仏教理解の提示方法を批判し、哲学者による新しい視点・提示方法が示されたという点は刺激的に読むことができました。

 

「我」の問題に関してブッダに言わせれば、無為の領域に関して真我だの無我だのいうのはナンセンス、ということになるのでしょう。

 

しかし、『なぜ今仏教なのか』でも行われていますが、仏教を現代的な別の分野の目にさらすことは有意義で、これからどんどん行われるべきだと思います。

 

そして、仏教の文脈でなくとも、瞑想や坐禅などが自分に必要であると感じた人が実践を行ってくれるのは単純に嬉しく思います。

 

付論だけでなく、この本自体の内容も永井均さんの最新の見解がたくさん示されていて、以前よりもわかりやすくなっていると感じました。

是非読んでみてください。









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