遊心ノート①「伝道の暴力性」


今後の話のタネになるような話題や問題意識のメモです

とりとめのない雑文ですが

今後放送などで扱うための用意として見てください

今までの放送で禅修行の現場における暴力性についてはたびたび指摘してきた。そのなかで折に触れて「身体的暴力を全面的に否定し去るのは良くないのではないか」と言葉を添えてきたが、この点についての問題意識のまとめを残しておく。この問題について「暴力的な指導はあってはならない」という社会通念は、今やいかなる場合においても否定することはできない。当然個人的な見解としても許されるものではない。誤解を受けないよう始めに記しておくが、ここで扱いたい問題は現代における暴力的指導の可否ではなく、伝道(指導)にあたってその強制力がいかにあるべきかである。

あらゆる指導現場において暴力性が取り沙汰されて久しいが、社会通念と一線を画した禅修行の現場においても、世間からだいぶ遅れたとは思うが同様の傾向として暴力事件などが問題視されるようになっている。この傾向が世間と同じく、今後あらゆるハラスメントの防止を要請するのは当然の流れとして推測できる。しかし、この問題に対応して暴力性を否定するにあたって、単純な道徳的意識において許されぬとするのみで果たして十分な自覚と言えるだろうか。
およそ指導という行為においては指導者が学人に強制力を行使することは避けて通れぬ道であるし、その強制力の必要性をよく理解していたからこそ歴史上には現代人に理解しがたい暴力的指導も存在したのだろう。禅修行の指導者が身体的暴力を行使した上で涙を流して謝罪した(当然指導の形を改めるという話ではない)記録も残っている通り、時と場所を移せば指導において学人の問題解決のための最適解としてやむなく機能していた事実を看過することにはならないだろうか。

永平寺の修行現場についての放送で言及した通り、身体的暴力を固く禁止した結果として目に見えぬ陰湿なハラスメントが横行するのは当然のことに思える。世間の問題意識はどこまでも表面的な暴力性のみに目を向けているが、根本的な問題についての認識がなされぬままでは形を変えた問題が今後も続いてゆくだろう。
指導という行為が強制力を伴うのは当然のことだが、その強制力がいかなる形であるべきかをよくよく反省するべきだと、ここ最近ずっと考えている。とくに宗教的な問題についての指導では、客観的正しさをいかに担保するか、世間一般の教育のように簡単にはいかない。親が物を知らぬ子供に“正しいこと”を伝えるのと同様に、宗教者も学人に対しては指導者当人にとって全く当然の“正しさ”を伝えるのだが、現代においては宗教的“正しさ”を保証するような世界観や経典はお世辞にもうまく機能しているとは言い難いからだ。かといって、指導者の持つ宗教的価値についての確信はそのまま彼のすぐれた宗教性の現れであるから、はっきりと自信をもって正解を提示してもらわなければ困ることになる。ここで、宗教的価値に当然含まれる、善悪の基準が社会通念と異なっていればいるほどある種の強制力が生まれざるを得ない。
「殺してはならぬ」「盗んではならぬ」など社会においても当然とされている規範は受け入れやすいが、「酒を飲んではならない」「性行為をしてはならない」などは一般的に言えば個人の好き好きにゆだねられるだろうし、「毎日できるだけ坐禅をすべし」ともなると、社会的な生産性を全く無視していかなる世間的利益も生むことの無い行為を勧めていることになる。これを単なる“勧誘”として一つの選択肢を提示しているだけととるか、当然学人のなすべきこととして提示しているととるかが指導かどうかの分かれ目であるし、後者において“強制力”を認めるか否かの違いになるだろう。
もちろん、二者択一でいずれかを伝道の態度として選ばなければならぬという話ではなく、時と場合において適切なバランスをとるべきであるのは言うまでもない。個人的な見解としては、ここで言う“強制力”、もっといえば暴力性の自覚が指導においてはなくてはならないものである。だからといっていかなる場合においても指導として強制力を行使すべきと言うわけではない。ただ、ある種の強制を通して学人の問題解決についての責任を持つ、ということが指導者のあるべき姿ではないだろうか。

外を走り回るのが楽しくて仕方のない年頃の子供に向かって、「信号が赤の時は道路を渡ってはいけない」と言う時、自覚的であろうとそうでなかろうと親は子供の世界には未だ存在しない規範を強制しているはずだ。その結果として、子供の見る世界がどこまでも走り回れる愉快な世界であったはずなのに、ルールの中でしか動けぬようなつまらないものになった。その失われた価値と得られる価値を比べて、「その指導の結果は彼にとってより良い」という断定が指導者の責任であると思う。その断定的強制によって後日子供がいかに文句を言おうが子供との関係性が悪くなろうが、指導の内容を改めようとする親は少ないだろう。たとえそのような問題が起こったとして、考えるべきは「赤信号を渡るべきか否か」ではなく、伝え方の言葉選びや態度など、指導のあり方だ。いくら子供に嫌がられる可能性があるとしても、親として伝えるべき内容を伝える責任を逃れようとはしないだろう。
同じ指導の問題が修行現場でいかに認められているかを考えてみると、なるほど、伝道の言葉選びや態度など皆よくよく意識を向けるところではあるようだ。ここにいちいちその例は挙げないが、暴力事件やハラスメントに敏感になっているのは修行道場も同じであることは上記の通りである。だがしかし、例に挙げた指導の責任ついてはどうだろうか。現代において話題性のある問題であるからこそ、管見の範囲では、組織の意見としても個人の意見としても、指導における暴力性を忌避するあまり、指導の責任、強制力の行使の必要性という根本的問題を見過ごしているように思う。
宗教的価値の伝道においては、多かれ少なかれ個人の世界観や人生観に丸ごと影響するような、ときにそれらがひっくり返ったとも形容される経験が伴うことも多々あるはずだ。それらの指導においては、学人が想像もしなかったような視点や体験を与えることを目指しているのであり、そのために行使されるあらゆる強制は学人にとって理解の及ばぬものであることが少なくない。事実、歴史上の修行者達も、なぜそう指導されるのか初めからわかった上で厳しい生活に身を投じた訳ではないだろう。ここにおいて指導者は、学人の理解は及ばないであろうことを分かった上で正しい在り方を提示しているし、学人も同様に自身の理解は及ばないが正しい指導を求めているのである。言い換えれば相互に納得した上で強制力を機能させていることになる。そしてこの場合、指導者もよくよくそれが正しいと理解しており、学人もその正しさを信頼しているとはいえ、一方にとって理解のできぬ強制力が働いているのは確かだし、傍目で見ればそれは暴力以外の何物でもない場合すらあるだろう。そもそも第三者的(社会的)な視点で見れば宗教的価値を伝道するための指導とは暴力性を孕むものではないだろうか。ここに修行現場において表面上の暴力性のみ問題視する危険があるように感じている。

個人の納得できない暴力やハラスメントは許されぬし、身体的暴力問題など言語道断という点は何度も強調しておくが、修行の現場においては入門の時点で“不惜身命”の意志を問われることが前提となっている建前があることも思い出してほしい。自身の葬儀代を荷物に入れて入門する学人に対して、「社会通念で納得できる範囲でのみ指導します」と言うことが果たして指導者として責任のある態度といえるかどうか、少なくとも世間の常識から外れているとはいえ指導の必要性を納得してもらう努力は必要なのではないかと思う。仏道修行の特徴とはいえ、まずもって世間的価値そのものを形成している煩悩を一面で否定することを要求するはずの指導が、一般常識の範囲でしかなされぬのであれば、学人の覚悟も志も行き場を失うことになりはしないだろうか。「あらゆる暴力性を排するべき」というのであれば、人欲が生む希望や嗜好を否定することを求める指導が成立するべくもない。
ここで見直されるべきは指導者と学人の相互理解であり、強制力を行使せざるをえない指導教育においてなぜその方法が適切なのか両者が納得しているか否かだろう。現代では身体的暴力は方法としてもはや適切ではないのは当然だが、では歴史上記録に残るそれらはなぜ行われていたのだろうか。例えば、人間的欲望が作り出す世界観を根底から打ち崩すために行われた叱咤鞭撻の方法が、“暴力的である”との理由のみで廃され、その上で他の代替案が考案すらされないのであれば、それは伝統への冒涜とはならないか。それが意味するところは、指導者はいかなる宗教的価値を伝道すべきであるかもはや明らかならず、学人もいかなるものを学ぶべきか見当もついていないということになるのではないだろうか。
かくして伝統的形態のみを残して行為の意味が喪失されたのが現在の実態であると言われてしまえばそれまでであるが、あくまで個人的な要望として、やはり指導方法の見直しとあるべき姿については今後取り組むべき課題として指摘しておきたい。特に、高い宗教性を保つ指導者であればあるほど、それは他の理解の及ばぬ価値を示すことになる点、また、その指導者と学人の世界観の距離が遠ければ遠いほどある種の強制力がより大きく働くことになる点は避けられないはずだ。その指導における強制力の自覚と、それを行使するにあたって適切な対象であるかどうか、学人の適性判断、事前教育の必要性を精細にわたって吟味する必要を強く感じている。

 



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