「迷いを受け入れ、本当の自由を手にする」
って日本人が言ったらちょっと気持ちわるいですが、
きっと英語ではもうちょっとスマートなニュアンスですかね?
和訳が悪いという可能性も…。悪しからず……。
元記事はこちら(英語サイトです)
Lion’s Roar 「What Should I Do About My F’d-Up Life?」 BY COLIN BEAVAN
前回はこちら
だれが辛い時期を送っているとしても、なにも悪いことはない。
私の先生、ガンジー、キング牧師、私―すべての人間。
そう、だれが辛い時期を送っていたとしても、なにも悪くないのだ。
迷いがやむことはない。人生に生まれる、混乱、欲望、怒りはたぶん完璧に消えることはない。
しかし、少しでも良くなるように、それらを切り離すことはできる。だからこそ、ガンジーやキング牧師の欠点を知ることは感動的なのだ。
彼らはそこまで我々と違う人間ではなかった。迷うこともあっただろう。
しかし、ほとんどの場合で重要な時には、彼らはそれを切り離すことが出来た。わずらわしいノイズは聞こえただろうが、たいてい、ノイズのホコリが落ちてゆき、彼らは上へと昇ったのだ。
問題をそもそも問題として取り扱わないのか。 解決できる問題と、できない問題がはっきりしていれば どのように対処するべきか変わってくると思います。
無茶苦茶な内側と、無茶苦茶な外側の違い
これはその面接で先生と次に話したことだ。
彼は、「無茶苦茶な内面と無茶苦茶な外側の違いを知らなければならない。」と言った。
外側の“無茶苦茶”は環境と、それに伴う気持ちと感情の移り変わりによるものだ。
愛する者を失くしたり、失恋したり、仕事での嫌な配役、それか、予期せぬ高額の支払いや、自主的でない休暇のキャンセルなど。
もっとささいなことまで、私たちはそのような状況に対応するために何時でも気を使っている。
まるで、片方ずつ足を踏みだして歩くように、それらを“無茶苦茶”では無くなるように努力する。それが自然だ。
対して、内側の“無茶苦茶”は、あなたが外側の“無茶苦茶”に対して納得できない時に起こる。
それが起こるのは、どうにか迷いを完全に止められるという誤った考えにとらわれて、全く閉ざされた扉をたたいているような時だ。
人生の過程で動揺した時、例えばあなたは“もっと大きい家ならきっと大丈夫”と思う。それか、たぶんもっと良いパートナーがいれば、または、もっと高い給料…。
それか、もしかしたら、世界の皆があなたと同じように、あなたが思っているような重要なことについて考え始めるのであれば、皆で社会を変えようと思うかもしれない。そしたら、たぶん、あなたはいい気分になるだろう。
もしもあなたが、行ったり来たりする“迷い”を消すことで上手く行くと思っているのであれば、その挑戦はきっと絶望的だ。
あなた自身や世界を良くしようと言う試みが悪いわけではない。
しかし、あなたが“迷い”を消すことでこれらが上手く行くと考えているのであれば、きっとそれは絶望的な試みだ。
あなたはおそらく、希望を忘れ、真実を忘れ、愛と同情の代わりに怒りや不安に身を任せて行動するようになるだろう。
自分自身苦しみ、人を苦しめることになる。こんなことはもう散々やってきたはずだ。
あなたは、苦しみのシステム自体を変えることを止めようとするか、もしくは変えようとして、ただ個人の感情をなぐさめようとすることになる。
間違った道を行こうとするタクシードライバーを批判するように、人生が不快な方向に行かないように、気に入らない物や人々を、なんとか都合の良いことをするように批判するのだ。
人生はそれ自体いつでも楽しくあるべきであるかのように。そう出来ない時でも、あたかも誰かに何かを強制すれば実際に快適になるかのように。
抱えている迷いや不快な感情が無くなる という誤解にまずは気づくことで 無駄に人や物に攻撃しないことを言っています。 そうは言ってもなかなか…ですね。
本当の自由を見つける
部屋の中で、先生が私に言おうとしたことは、「もし私にその“迷い”が止まることが無いと、受け入れることが出来れば内側は無茶苦茶でなくなるだろう」ということだった。
なぜなら、その時わたしは、その無茶苦茶は“無茶苦茶”ではなく、ただ人生の一部であると分かるからだ。
もし迷いが永遠なら、どうして迷っていることにうろたえるのか。
どうして、その迷いから逃れる必要に支配されなければならないのか。いつだって、またすぐに次の迷いが始まるというのに。
もし私が迷いを受け入れるのであれば、わたしはもはや私自身には、どうにもならないような物事を変えようと必死になる必要もなくなる。
ただ、“人間である” ことで私は自由になる。
一時の安心より、長い満足をもたらすものを選んで行うことが出来る。
そうは言っても、私は時々、傷つき、怒りを覚えることもあるが、おそらくそれらと戦う必要はない。
たぶん、その代わりに、ただ居心地の悪さを受け入れ、本当に気にするべきことにエネルギーを費やせるように自分を自由にすることが出来るのだ。
変わりゆく人生の環境や感情にかき乱される必要はない。一時の安心よりも、長く満足をもたらすものを選択して行うことが出来るはずだ。
そしておそらく、私が幸運ならば、この苦しむ世界を助けるための道を、見つけるだけの十分な落ち着きを持つこともできるだろう。
無茶苦茶=悪い と決めつけなくても、 ただそういう形であるだけだ と達観すれば、無理に無くそうとも思いませんね。 文句つけようと思ったらなんにでも文句はつけられますよ、 ということをいっていますね。
優れた記事を日本語に要約してご紹介する企画です。
日本文化としての仏教に慣れ親しんだ日本人にとって
時には新鮮な発見もあるかもしれません。