指導者にむけた問いを語った記事です。
実践者には大変参考になる記事だと思います。
二回に分けて更新します。
元記事はこちら(英語サイトです)
Lion’s Roar 「What Should I Do About My F’d-Up Life?」 BY COLIN BEAVAN
私がメディテーションを学んだのはニューヨークのChogyeインターナショナル禅センター というところだ。私が仲間たちと共に足を組んで坐るときは完全に静かな状況だった。―――ある時を除いて。
毎回、隣の部屋で鐘の音がすると、誰かが立ち上がり扉から出ていくのだ。
一度のメディテーションで一人一回、プライベートで個人的な質問を先生にすることが出来た。
禅センターが多くあります。 長い間そこで生活しながら仏教を学ぶことが出来るので 人気もあって、年々数が増えているようですね。 ここで言っているのは臨済宗でもやる “独参” のことで、 老師に自分の質問をしたり、老師の質問に答えたりします。 禅問答のイメージが大きいですが、実践的な場では 普通の会話がほとんどです。
この日は特別、私の体は落ち着いていていたのにも関わらず、心はざわついていた。
なにが私を邪魔しているのだろう?
皆が感じていたことと同じく、お金の問題、子供の心配、仕事のストレス、恋愛の悩み……、何も静かに落ち着いてはくれない。
全てが代わる代わるしていたのだった。
もう一度ベルが鳴ると、今度は私の順番だった。
静かに立ってドアに近づき、面接室に滑り込んで、先生に向かって挨拶の礼拝を作法にのっとり行った。先生はクッションを指さしたので、私は先生の向かいに腰を下ろした。
「何か質問がありますか?」と先生。
質問?もちろん。
おそらく同じ質問は皆持っているだろうけど……
生活のわずらわしさを、どうしたら失くすことが出来るのか?できれば永遠に。
どうしたら“自分も死ぬのだ”という現実を皆のように直視することができて、それを心配する事無く過ごせるのか?
どうしたら人生の不安をそこまで深刻に感じる事が無いようにできるのか?
(こんなにも世界はむちゃくちゃになっているのに政治家は何も気にしていないという事実をどうしたらいいんだ?)
ほとんどジョークのように私はこう言った。
「OK, では、質問させてください。“私の無茶苦茶な人生をどうしたらいいんですか?”」
先生は手を伸ばして体を立てると、アゴを杖の上において笑いながら言った。
「“無茶苦茶”じゃなくすればいい」
ホントに?
私は考えた。
それがあなたの答え?
「先生には、それで、OKなんですか?」
先生はこう言った。
「まだムリかな!」
そして二人で大きく笑いあったのだ。
禅の先生でさえも人生うまく行かないのだと思い出してみると、これは良い経験だった。
知るところによると、当時、彼もまたお金の問題や恋愛の問題があったらしい。
無茶苦茶だと思わなくなればいいじゃん。 という禅僧らしいことばですね。 「私もできないけどね。」 と言っているのが好印象です。
たぶん、“私が間違ったことをしている” なんてことはないのだ。
おそらくこれは、ただ人間であるというだけのことだ。
実際、何年もの間に及ぶ、完璧な人生を送っている人を見つけようという私の努力は無駄だった。人間性を超越した、そんな人はどこにもいなかった。
ガンジーはかんしゃくもちで妻に厳しかったし、キング牧師は女性問題があった、など。
これは私にとって、もはや悪いニュースではなかった。つまり、おそらく私は間違ったことをしていたわけではなかったのだ。たぶん、ただ私が人間であったと言うだけだったのだ。
人間として持つ迷いを打ち消そうと、あらゆる努力をして はじめてその努力自体が無駄だったのだと納得するには かなりの時間がかかるはずなのは言うまでもありません。 人間としての間違い、と 彼の言う「私が間違っている」ことの違いは重要です。
部屋の中で私と坐りながら、先生は言った。
「“迷いに終わりはない”ということが分かっただろう。だからそれらを失くすと私たちは誓うのだ。」
彼はこの宗派での禅修行の指針となる4つの誓いの一つを引用した。
これは、無限の迷いについて、他の三つと同じように、それを失くす誓いというもので、様々な場合にそれぞれの意味を持つことが可能だった。
しかし、今の私にとって、それは“生きていれば、訳のわからない事が無くなりはしない。しかし、私たちは訳のわからない事に閉じ込められてしまわないように誓いを立て、自分や人に対して善い行いが出来ないということが無いようにする”という意味だ。
という、曹洞宗でもよく唱える偈文(げもん)です。
次回に続く!
優れた記事を日本語に要約してご紹介する企画です。
日本文化としての仏教に慣れ親しんだ日本人にとって
時には新鮮な発見もあるかもしれません。