禅僧の言葉⑧:自も他も無い。


この記事は、パブリックドメインとなった『大法輪閣版 澤木興道全集』を元にして読みやすいように再編集したものです。

昭和の時代に“最後の禅僧”と呼ばれた高僧の言葉をコメントと共に紹介いたします。

前回はこちら

本寝坊主
昔話のはじまりです。

こういうお話させたら澤木老師は大変お上手ですね。

 

落語が法話から始まった、というのにもうなずけます。

かし五武器という武道の達人がおった。五つの武道の達人である。弓と棒と槍と剣と長太刀であったが、このどの武術にも達しておった達人であった。これはお経の中にあるが、この武士が諸国を武者修行して歩いた。あるとき山のふもとから峠へさしかかろうとすると、ふもとの里人が「アノお侍さん、お侍さん、この山には恐ろしい化け物がおって、どんな者でも取って食いますから、この山にはいらず、少々遠回りしても、もっとふもとを回ってゆきなさい」と注意した。

するとこの五武器の言うのには、「おれはどんなものにも恐れない修行をしたから、こんな山くらい構わない」

「よしたがようございますよ」ととめるのもかまわず、五武器がその山へどんどんはいっていった。すると向こうから恐ろしい化け物が目の玉をキラキラさせて大きな口を開いてやってきた。そうするとこっちから弓に矢をつがえてピュッと射たところが、むこうの恐ろしい化け物にはその鋭い矢も刺さらない。しかも体に粘着力があってピシャッと矢がひっついてしまう。あるかぎりの矢を射たがみなピシャッとひっついてしまって、矢がなくなった。今度は、槍をピュッと突き出したが刺さらない。引抜こうと思ったところがこれまたひっついてしまって離れない。とうとう槍を取られてしまった。こんどは長太刀をふりまわして斬りかかったが、これもまた相手の向こうずねにピシャッとひっついてしまった。今度はしようがないから棒をふりまわしていったが、棒もまた相手の横腹へひっついてしまった。今度は剣を抜いていったが、剣も相手の体へひっついてしまった。今度はもうしようがないから拳骨をふりまわしていったが、拳骨がコツと当たるとまたピシャとついた。左の方もピシャッとついてしまった。今度は足でけったが、足も両方ともくっついた。最後に頭をごつんと打ちつけたが、頭もビシャッとくっついた。とうとうもちにひっついたハエのようにひっついてしまった。

こでその化け物が、さあどこから食おうか、頭からかぶりつこうか、手を引抜いて食おうか、と見たところが、侍はじっとしている。ちょっともバタバタしない。化け物は不思議に思って、たいがいの奴はバタバタ最後までもがくのに、こいつはちょっともバタバタしない。何でバタバタしないのか、不思議でたまらぬ。そこで聞いた、「これ、木っ端、たいがいの者は助けてくれとか、ウワッとかいうのに、貴様はちょっともバタバタしない、何も言わない。いっこう張り合いがない。いったいどういうわけで落着いているのだ」

すると五武器が言うのに、「そうじゃ、貴様はおれを食おうと思っているが、おれというものは貴様の眼に見えるようなそんな小さいものではないのだ。おれというものは天地いっぱいのものだ。その天地いっぱいのものを食おうなんて……このおれの中に貴様があるんだ。そのまた貴様が天地と一体であるから貴様の中におれがいるんだ。貴様は食おうと思っているが、貴様の食うのは貴様の中のおれを食うことになるのだ。それはおれの中の貴様がおれの中のおれをくうので、何もべつに貴様がおれを食い終えるものではなし、おれがまた食われてしまうわけでもなし、例えていうならばタコが自分の足を食っているのとちょっとも違わない。貴様が食ったところでおれが減るんじゃなし、貴様が殖えるんじゃない。べつに得することじゃない。それを貴様は、愚かだからそんなことを考えているので、貴様がおれを食うからといって、おれは貴様に食われ切ってしまうようなわけのものではない」

化け物がびっくりしてしまった。「貴様の中におれがある、おれの中に貴様がある……気味の悪いことを言いおる。こんなやつは食わんでおこう」と言った。

「いや、かまわん、食え」

とうとう化け物から恐れられて、「もう食うのはよしておく」

「そんなら武器をみな返せ」とみな返してもらって大道闊歩していったという。

本寝坊主
宮沢賢治の詩を思い出しませんか?

「すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから――『春と修羅』」

彼の仏教的世界観についてはたいへん有名ですが、

ここで五武器が語っているのも、それに似た世界観です。

 

の五武器は何をいっているかというと、仏道の体験、悟道の道を説いている。永遠に死なない自己を見出すことである。最上最高の幸福にありつくことである。本当の自分にすっかりなり切ったことである。動物の自己を滅亡して最上最高の久遠の自己を見出す、永遠に死なない人間になり切ることである。いまの「仏仏手をひいて眼前に入る、瑞を呈し山を覆う盈尺の雪」人を度し自を度し、一切をことごとく永遠の生命によみがえらせようとするのが、仏道のもっともめでたい尊いところである。

天地同根万物一体のわれここにあり、この宇宙いっぱいの自己を持ち切る、永遠に死なない自己があるとわかって、そこではじめておめでとうということになるのである。

本寝坊主
何をいっているのか、

もしかしたら混乱するかもしれません。

 

自分と他人の隔たりがない、

見る自分も見られる他人もそこにはない、

自他の別れる以前のそれそのまま

 

そのような世界を澤木老師は

 “永遠の生命” とも呼びます。

 

死ぬ自分が居なくなったところなので、

お釈迦さんの言うところの

「この世とかの世を共に捨て去る」

と言っていることと同じですね。

 

大乗仏教では現実性を重んじて、

永遠の生命への信仰や情緒を大切にするため、

このあたりのお話は、現代においては

かなりぼんやりとして聞こえますけど、

素敵だと思います^^

 

次回へ続く!

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