体験したい?―「仏教」への動機


前回、アメリカ仏教界のドラッグ事情を見てきました。

ドラッグと日本は関係がないと思う人もいるかもしれないが、

ドラッグ使用を決断した問題意識は他人事ではないかもしれません。

前回はこちら(↓↓)

仏教とドラッグまとめ-アメリカ仏教事情

2018.09.11

 

仏教理解の差異

 

前回、アメリカでのドラッグ使用における着眼点は「どのレベルの体験として仏教を理解するかどうか」であるとしました。

 

これはどのような仏教なら満足できるか、ということも同時に意味しています。

 

ドラッグの是非ではなく、仏教理解とその消費方法の問題は日本でもあると思います。

 

例を挙げて、たとえば「縁起」という仏教用語を語る際によくある言葉があるのでそれを見てみましょう。

「みんなの支えがあって、今私たちは生活ができています。これが縁に生かされるということ。」

 

もちろん伝える人によっても提示方法は変わるのでしょうが、「専門家」であるはずのお坊さん同士でもこんなことを互いに言いあっています。

 

私は仏教に興味を持つ前、ドヤ顔で法話しているお坊さんを見てこう思いました。

 

「その程度のこと、修行する前に気づけ

 

正直社会の中で働いていたほうが、よっぽど人の恩やありがたさを感じる機会はありますし、わざわざ山の中に籠って「修行」というものをした人間が「その程度」のことを偉そうに言うなんて信じられませんでした。

 

もしそれがすべてであれば、今生きている私たちにとって、もはや仏教は必要ありません。

 

現代にはそれを説明するために、仏教なんかより説得力のあるものがたくさんあります。
(場合によっては、田舎のおばあちゃんの方が説得力があったりします)

 

もちろん先ほど上に挙げた「縁起」の仏教理解が間違っているとは全く思いません。

 

言っている人も嘘ではなく、本当に自分の生きてきた体験から照らし合わせて、そう言っているのでしょう。

 

それも仏教の一部ですし、実際に僧堂で長い修行期間を重ねても同じことを言う方もいます。

 

そして「お坊さんがそんな話をする」という状況を望んでいる人たちも数多くいます。

 

 

しかし、その仏教理解を提示されて満足できない人がいることも事実です。

 

しかし本来、仏教はその教義において、世間的価値観では測ることのできないモノを含んで提供しています。

 

たとえば有名な般若心経など、虚心坦懐によめば、通常の生活ですぐに役に立つものとは言いにくいです。

 

すべてのものは実在しない(=空)」という教えをどう人間の日常に活かせ、というのか。

 

 

(その内容=空の ”ホントウ” は正直よくわからないが、何とかこれまでの人生経験で解釈して)「つながりを感じて生きていきましょう」

という程度におさめてしまうのか。

 

俺は見た。お経に書いてあるようにホントウにすべてのものは実在しないんだ。その上で生き方を考えよう」

と言うのか。

 

この違いは両者の体験の違いに直結しています。

 

そして、アメリカのドラッグ事情はこのあたりの問題意識が関わっているようです。

 

日本でも、この問題意識だけを取り上げたら共感する人は少なく無いと思います。

 

つまり、アメリカでは、言われる通りに仏教の実践をやったが、示される教えに対してハラの底から納得いっていない人が多くいたということです。

そして、ドラッグを適切な環境でやったら「”体験”を得てハラの底から納得できた」と宣言する人が増えたということでしょう。

 

結局ドラッグってどうなの?

 

ここまで、ドラッグ肯定派の問題意識を理解するために記事を書いてきましたが、

 

「じゃあ今から海外行ってドラッグをやるか?」と聞かれたら、

 

私はやりませんし、誰かにすすめもしません。
(特にやる理由が思い浮かばない、といった方が正確です。)

 

結局、ドラッグとは現状を打破するための手段にすぎず、それが有効かどうかは経験者本人しかわかりません

 

その手段の結果が仏教と同じか違うかも、経験者本人しかわかりませんし、経験者でも感じ方は多々あると思います。

 

しかし、「ドラッグをやらなければ仏教の教えはわからない」という論調にまで一般化するのであれば反対します。

 

特に、上記した「縁起」の通俗的解釈を「仏教の教えの核心」だと満足している人が、わざわざドラッグをやることになったら悲劇だと思います。

 

「仏教」の消費され方

 

つまるところ、この問題は「仏教」というコンテンツの消費のされ方に行きつきます。

 

・普通の社会生活のなかで、文化的な仏教を理解して、道徳的人間になりたいのか、

 

・(ドラッグを使用することも辞さないほど)真剣に仏教の実践における体験と理解を求めるのか。

 

これらは、どちらが正しいかという問題ではなく、

「どのレベルの体験として仏教を理解したいのか、もしそうであればどのような方法が適切か」という問題です。

 

現代におけるドラッグと比べて、反社会性、非道徳的、という面であれば、

両親妻子を捨てて、肉体的にほとんど自死にいたるほどの苦行をすることは、

現代的に見ても、そう大きく変わったものではないと思います。

 

私たちはドラッグを考える前にその動機をしっかりと見つめるべきかもしれません。

 

むしろその動機の淵源こそ仏教が主題とするところではないでしょうか。

 

まとめ

  • ドラッグの是非ではなく、問題意識は日本人でも理解できるのでは
  • 私たちはどんな仏教だったら満足するのか?








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