【ブックレビュー】なぜ今、仏教なのか その②:矛盾する瞑想体験


 

ロバート・ライト氏の『なぜ今、仏教なのか 瞑想・マインドフルネス・悟りの科学 』の感想です。

*まだ読んだことがない、という人に向けて書いています。全3回の内の2回目です。

前回の記事はこちら(↓↓)

【ブックレビュー】なぜ今、仏教なのか その①:進化心理学と仏教

2018.08.31

 

前回、瞑想を行う理由は、自分の欲望を客観的に観察・制御して、

現実の問題に対応していく術を身につけることであると書きました。

 

しかし、瞑想が熟達するにつれ一言では言い表せないようなことが起こってきます。

 

そしてこの本の良いところの1つは、瞑想体験が赤裸々にかかれているということです。

 

普通の仏教書ですと、瞑想や坐禅を人にすすめているのにもかかわらず、その中でどんな体験をするかが書いてありません

 

確かに体験が書いてあると、瞑想をする前に体験を想定してしまう、という悪影響もあるかと思います。

 

しかし、これからどうなるか分からないことを「やれ」と言われても、気が引けてしまうでしょう。

 

それが仏教とあまり関わりのない人ならなおさらです。

 

この本では瞑想の初心者であった筆者が、瞑想合宿に参加し、

自らが体験したことが率直に綴られています。

 

 

矛盾する瞑想体験

 

内向きの無我

 

少し著者の体験を引いてみます。

著者は瞑想の前に飲んだインスタントコーヒーが原因で、あごにいやな張りを覚えていた。

なんとか瞑想に集中しようとするが、なかなか集中できない。

そこで仕方なく、これまで避けようとしていたあごに感覚を向けた。

そして、じっと客観的に観察を続けたところ面白いことが起ったのだ。

 

それは感覚に向き合い続けた結果、あごの感覚がまるで自分のものではないかのように感じられたのだ。

 

正確には不快な感覚が実際には消えていないにもかかわらず、不快ではなくなるという不思議な体験だった。

 

瞑想をやったことがない方であれば、

先生、患者さんはこちらです
こいつ・・・何言ってんだ・・・?

 

なんて思うかもしれません。

 

しかし、ある程度しっかりやったことのある方ならば、著者の感覚はよく理解できるものです。

 

 

この本ではこの体験を「内向きの無我」と呼んでいます。

 

これは、自分の「内」をのぞいて思考や感覚を見つめると、それらに対して「自分ではないという感覚」をリアルに感じることです。

 

たとえば、手は痛いのだけれども、<私>が痛いという感覚がない

 

感覚や思考が自分と切り離されたという体験です。

 

言い換えれば、「自分」を他人として観る感覚、とも言えます。

 

 

外向きの無我

 

面白いことにこの本では「内向きの無我」の体験だけでなく、

外向きの無我」とでもいうべき正反対の体験にも言及しています。

瞑想をしてるなかで、足がじんじんしびれるのを感じはじめた。

ほとんど同時に、外で鳥がさえずっているのが聞こえた。

奇妙なことに、鳥のさえずりが自分の一部でないのと同じくらい、足のしびれが自分の一部でないように感じたのだ。

 

自分と自分以外の全世界とのあいだに感じていた境界が溶けていくような気がした

 

一見すると、足が自分の一部でないように感じた、とあるので「内向きの無我」の体験かと思うのですが、

問題はそれが鳥のさえずりとほとんど同じ感覚であると言っていることでしょう。

 

そして、自分が世界に溶けていった・・・・・・

 

鳥のさえずりと足のしびれが同じ・・・?

 

自分が世界に溶けた・・・
だめだこいつ。はやくなんとかしないと。

 

そう思ってしまうのはわかりますが、ちょっと待ってください

 

もう少しだけ辛抱してください。

じつはこの部分がとても重要なポイントなんです。

 

話をもどすと、筆者は「足のしびれ」と「鳥のさえずり」の間に連続性を感じました。

 

よく使われることばでいえば、「自分と世界が一つのように感じた」ということです。

この「一体感」体験を「外向きの無我」と呼んでいます。

 

 

まとめると、ガチで瞑想してみたら正反対の矛盾するような体験が起こったということです。

 

  • 内向きの無我(分離感)

 

  • 外向きの無我(一体感)

 

 

仏教の教え的に考えれば、お釈迦さんの説いた「無我」は明らかに前者を指しているように見えます。

 

すべては私ではない

 

 

一方で後者は、インド正統哲学のヴェーダーンタ学派のような言い方です。

 

世界と私はひとつ。梵我一如!

 

 

どちらが正しいかの哲学的な議論は脇においておきますが、

大事なことはこの相反する体験が瞑想者の中で生じるということです。

 

これまでに何度か、本当に熟達した瞑想家に自分の経験を説明する機会があったが、

 

ひとりの例外もなく、私が説明しているような経験を自分も経験したことがあると言っていた。

 

そのうえ、瞑想家たちはこの種類の経験をとても重要だと考える傾向にあった。

瞑想を真剣にやったことのある方ならば、ひとりの例外なくこの経験をしたことがある、といいます。

 

この体験こそ仏教の中心とまで言いきる瞑想指導者もいたということです。

 

体験することの意味

 

ここまで、瞑想体験について書いてきましたが、こう思う人がいるかもしれません

 

瞑想すると変な体験をすることはわかった。

でもさ、それってなんの意味があるの?

 

変な体験が目的なら、ドラッグでもやれば一発じゃない?

 

これらの疑問はそのとおりで、瞑想や坐禅をする際にもっとも大事なところです。

 

宗教的な修行をやれば、”普通とは違う体験”ができる。

 

しかし、それらがどのように「わたしたちの人生」とつながってくるか、を見極めなくてはなりません。

 

 

今回はここまで。

↓↓なぜ今、仏教なのか その③:悟りとの距離↓↓

【ブックレビュー】なぜ今、仏教なのか その③:悟りとの距離

2018.09.02

 

まとめ

  • 「内向きの無我」と「外向きの無我」
  • 矛盾する瞑想体験が仏教の核心!?

 

 








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