ロバート・ライト氏の『なぜ今、仏教なのか 瞑想・マインドフルネス・悟りの科学 』の感想です。
*まだ読んだことがない、という人に向けて書いています。全3回の最終回です。
前回までの記事はこちら
ここで一度まとめてみます。
進化心理学的に見た場合、自然選択が私たちの「現実」を決定している。 その「現実」に対しては瞑想が有効になる場合がある。 ある程度深い瞑想を行うと、通常の意識では起こらないことが起こる。 |
今回は、瞑想をすることによって得た体験とどのように付き合っていくのかを見ていきます。
すべての境界が消えたアレ
瞑想の道を突き進んでニルヴァーナに近づきすぎ、闘争心がなくなってしまうのはごめんだ。
完全な悟りにいたることが、どんな種類の価値判断をするのもやめ、改革を要求するのもやめることなら、私を抜きにしてもらいたい。
ニルヴァーナとは涅槃、悟りのことです。
実際に「俺は悟った。」という人間に出会ったことはありませんが、推測はできます。
前回に見た瞑想体験が極限までいきついた先を考えてみましょう。
「内向きの無我」と「外向きの無我」という経験を見ましたが、
これは「自分」という感覚が変化し自他の境界が薄れること、とも言えます。
行き着く先は、自分と世界が完全に混ざりあった何も切れ目ないアレ、です。
お釈迦さんに言わせれば
なにやらすごそうにも聞こえますが、ここで質問させてください。
「そんなの違うにきまっているじゃないか!」
という反応がすぐ返ってくると思います。
そうですよね。そんなの絶対に違います。
誰かが石ころを蹴って遊んでいても何も思わないけれど、
自分の子供が蹴られてたら、すぐ助けにいくに決まっています。
しかし、すべての境界が消え去ったアレ、はその世界に疑問を投げかけます。
何しろお釈迦さんは悟ったあと、どうせ理解されないから、という理由で説法を拒み続けました。
そして重い腰をあげた後に発したことばが
「死」さえも超えられる境地だといっているのです。
もうわけがわからないよ。
と言いたくなりますが、わかることは「不死」といってしまうくらいの世界観の転換があったということです。
↓↓↓このあたりのことはこの記事を見てみてください↓↓↓
悟りとの距離
著者は本書の最初で、仏教の教えを映画「マトリックス」にでてくるシーンにたとえています。
夢の世界にとらわれている主人公のネオに対して、反逆者のリーダーであるモーフィアスが差し出したものだ。
作中において、モーフィアスは赤い薬を飲むのか、それとも青い薬を飲むのかという、二つの選択肢をネオに提示する。
赤い薬を飲めば妄想の覆いを突きやぶって現実に目覚めることができるが、青い薬を飲めば夢の世界に逆戻りだ。
(解説より)
この本の文脈で言えば、赤い薬は仏教であり、青い薬は普通の生活、といえるでしょう。
最初に引用したように、「完全な悟り」によって社会改革などの「価値」がその人の中で崩壊してしまうことも起こりえます。
私たちは本当にそれを求めているのでしょうか。
瞑想を経験した私たちに求められるのは、悟りとの距離のとり方でしょう。
このレビューの第一回目で書いた「世の中をより良く生きる術」程度のことだったら、特に気にする必要はないかもしれません。
ただ、この本でも書いてあるように、仏教瞑想は遺伝子レベルで作られた「現実」と向かい合うことでもあります。
そして、それを「見た」ときには全く違う世界が開いてしまうでしょう。
ここで大事なことは自分が何を求めいているか、をしっかり見極めることです。
「自分の」愛する人や、「自分の」好きなものが無くなる世界。
それを見るか、見ないかは私たち次第です。
まとめ
- 当時マトリックスはスローモーションの映画というイメージしかなかった・・・
- それでも俺は赤い薬を飲む!