この記事について 「苦」というと「苦しみ」が思い浮かぶとおもいます。 しかし仏教の「苦」は単なる“現象”のことだった!? お釈迦さんや私達が出家する理由となった「苦」とは? より詳しくは魚川祐司さんの本などオススメです! |
動画でふりかえりました!↓
苦ってなに?つらいの?
これ、重要なのは
「苦」というものが「苦しみ」のことではなく
観察にもとづいた事実である
と言うことですね。
「一切皆苦」とも言われますが
これを見ると完全に「苦しみ」が思い浮かびます。
日本人って
一切が苦しみ!
とか、そういうネガティブな語感が嫌いなんじゃないかな?
仏教用語の「苦」とは
だいぶ意味合いが違ってきていますから。
難しい部分ではあるんですが。
あまりしゃべりたがらないですしね。
とくに、ありがたい話をする時には
なかなか生きるのは苦である!とか言えません。
ポジティブ病ですよ!
いい気分になる話だけしか、しなくなっちゃう。
でも仏教は気持ちの良くなるための思想ではありませんから。
根本的に。
あくまで仏教は「苦」からはじまりました。
という理解をしてくれないと
すべて的外れになっていきます。
まずは「苦」の概念を、しっかりと把握することが一番重要です。
ちなみに「苦」って、もともとのパーリ語では何でした?
不満足
ってくらいのニュアンスですね。
日本語の「苦しみ」だと
「辛さ」と、ほとんど変わらないイメージですよね。
ネガティブな感情を伴った。
感情の説明
というより
現象の説明
って感じですよね。
修行をする上での事実そのものであるってことですね。
出家してつらい修行をして
その「苦しみ」を
悟って消す!
ってイメージありますよね。
それって修行のイメージそのものですからね。
現に最初のステップとしては、私もそうでしたから
間違いではないです。
ほとんどすべての人は、そうじゃないですか?
「とにかく全部つらくない?」
というところから始まっても問題ないと思います。
しかし、その「苦」というものは
修行を始める時の「つらさ」と同じものではない
ということは知っていたほうが良いでしょう。
仏教は、その「つらさ」がどのように生まれているかを
ハッキリと理解する道のりである、って言っても良いです。
「苦」の理解の変化
「苦」の理解は修行前と比べてどう変わりました?
正直にいうと、修行する前には
「つらさ」を修行によって失くすことが目的だった気がします。
その時はその「つらさ」が「苦」とイコールでした。
そういった何らかの問題が解決できる
と思えなかったら初めから修行なんてしないです。
では、現時点で言うとすれば、
単純な “辛さ” と違う “苦” はなんですか?
簡単に言えば、楽⇔苦の「苦(つらさ)」ではなく
苦楽をふくむ実際の現象そのもの。
って感じですかね。
わかりにくい(笑)
じゃぁ遊心さん言ってみてよ。
我々があたりまえに見ている世界そのもの、
“うまくやろう” という思いが生む、
満ち足りなさ。ですかね?
すいません。私も上手に言えない(笑)
仏教的「苦」の話
道宣さんの出家する前の話とかで何かないですか?
僕がまだ寺で修行しようか悩んでいるときに
大学のサークルの先輩に相談したことがあったんですよね。
人生相談的なやつ。
「生きててもつらいんですよ」って話した気がします。
重いですね。
そりゃ出家する動機になるくらいだから。
その時の先輩の返事が
「俺は五体満足で生まれてきただけで幸せだ」
だったんです。
その言葉が出てきたんでしょう。
その気持ちは、とてもよくわかります。
そう言いたい気持ちは、よくわかります。
でも、当時は
「僕のつらさはそこじゃない!」
って心の中で叫んでましたね
「じゃあ五体満足じゃなかったら幸せじゃないの?」
って感じですよね。
五体満足だろうが、そうでなかろうが
「つらさ」は存在すると感じていました。
あの時は気づきませんでしたけど
この違いって仏教的な「苦」にも当てはまると思うんです。
五体満足どころではないですからね。
王子だし。
ハイパーリア充だからね。
そういう面で不満を感じたことは、ありませんでした。
リア充気質だから。
彼女とかも普通にいました。
でも、その上でなお
満たされないものがある
ということが仏教的な「苦」につながるんですよね。
その「世間的な苦しみを、欲望を満たすような形で解決する」
という文脈では仏教の「苦」は見えてこないですね。
それだと修行の形がガラッとかわりますね。
欲望が満たされるわけでも全く無くなるわけでも、ありませんからね。
よく友達からどや顔で
「煩悩だらけじゃん!」
って言われるようになったけど
そこら辺の誤解は大きいかもしれない。
まとめ
- 仏教での「苦」は、日常で使う言葉とは違う意味合いで使われる
- お釈迦さんはハイパーリア充王子だったけど「苦」を感じていた
仏教においては修行の始まりともいえる
重要な世界観です。