禅僧の言葉①:決定的に“めでたく”なる


この記事は、パブリックドメインとなった『大法輪閣版 澤木興道全集』を元にして読みやすいように再編集したものです。

昭和の時代に“最後の禅僧”と呼ばれた高僧の言葉をコメントと共に紹介いたします。

記事を朗読していただきました!↓

ったい、人間の幸福ということはどんなことか、めでたいということはどんなことか、物をもらったらめでたいのか、酒を呼ばれたらめでたいのか、嫁さんもらったらめでたいのか。

一休というおやじさんは、

元旦や 冥土の旅の一里塚(いちりづか)めでたくもあり めでたくもなし

いう縁起の悪いことを言いよる。もうちょっとあっさり、めでたいと言えんものか、こう念のいった頭を持つと正月も何にもならん。なるほど考えてみればそうにも違いないが、また世の中はそうでもない。

の友達の本派本願寺の僧侶が、私に年賀状をよこした。「貴宗師においては、めでたくもめでたくなしと存じ候えども、まずは凡夫並みにて謹賀新年」と書いてある。これは一休さんの歌があるもんじゃから、この男も、澤木のような男にはただまっすぐに「おめでとう、謹賀新年」ぐらいでは、後で皮肉を言われるとでも思ったのだろう。

本寝坊主
澤木老師は歯に布着せぬズバッとした物言いで有名でした。簡単にいうと口が悪かったんですね。

だから知り合いのお坊さんも、いったい何を言われるかわからないから、怖かったんでしょう。

というものはそんなもんだろうか。そんなに皮肉った念のいった、けったいなものなのか。どんなにめでたいことでも(すぐ簡単に)悲しくなり、どんなに悲しいことでも、めでたくなる。ちょっとの要領で悲しいことも、めでたくなり、めでたいことも悲しくなる。

元禅師のご著述『正法眼蔵』の中に「有時(うじ)」という巻がある。そのなかに「めでたいも時なり、悲しいも時成、美味いも時、味無いも時、嬉しいも時、暑いも時、寒いも時、嗚呼(ああ)、時なり」と書いてある。

本寝坊主
その場その時の一瞬が“めでたい”であったり“悲しい”である。自分の感じる現象=時である。というちょっと難しい引用です。「有時」は「正法眼蔵」の中でも難しいので有名です。

金で首の回らぬ年の暮れ、こうしておれば元旦がくる。じっとしてさえいれば、コケッコー、おめでとう!朝風呂、屠蘇(とそ)、お雑煮というようなものである。いったいそれは、めでたいのか悲しいのか。宗教的に考えると、めでたいと言うも悲しいと言うも内面の問題で、自分自身が永遠にめでたくなるということが肝心である。

れを大概の人間はその場限りのことで「どうぞまあ都合ようゆけばよいがナ……」と、こんなあやふやなことばかり考えている。ハシを立てて右に倒れればめでたい、左に倒れればめでたくないという。割りバシを割ると楊枝がでてくる。辻占(※おみくじ)がでてくる。ロクなことは書いてないけれども、吉事が書いてあると喜ぶ。そしてだれでもあれを見る。私も見る。よいのが出るとやはり良い気がする。坊主の悪口が書いてあるとあまり気持ちがよくない。こんな占い根性で、あやふやに暮らさずに決定的にめでたい人間に法があるのかないのか。そこの秘伝が私は仏法だと思う。いわゆる主観、内面の事実が決定的にめでたくなることだ。私はもう痛快でたまらぬ。仏教というものは、めでたいづくめじゃ。俺はまあよう坊主になったと思う。めでたくないこと無しで一生終われる。朝から晩までめでたいことばかりじゃ。

本寝坊主
仏教のことをはっきりと“決定的にめでたくなること”と言い切るのはさすがです。ともすると「ただ単にいい思いをするために、めでたくなること」が正当化されそうですが、それをしっかりと避けてしゃべっているのは今見ても法話として高等な技術だとおもいます。

この下に続く部分でもありますが、“都合の良い悪いが関係なくなる”ことが何よりもめでたいことだそうです。

ギャアーと生まれてから過去、現在、未来、永劫にめでたい。まあわたしには嫁さんがないから子はできぬだろうが、これで悲しいこともなし、不幸なこともなし、もうめでたいことばかりで一生を終わるんじゃろうと思う。そこが仏教の貴いところですね。悲しいこと無し、決定的にめでたいのである。ところが人間は「どうぞして都合良くゆけばよいが、どないになるのだろう」「俺の名前をつけ変えなきゃいかぬかな、俺の名前が悪いのでこんなに金が儲からない。こんなに月給が上がらん、なんぞよい方法がないかナー」そんなことを探して暮らしている。それが私は迷いじゃと思う。

やふやで、犬がエサを探すように鼻をクンクン鳴らして幸福を探している。一生幸福にゆきあたらず、結局そこら辺でズボッと棺桶の中に入る。気の毒なものだ。そんなあやふやを解決して、絶対にめでたい所へゆく秘訣が仏教である。

教を知らないで、仏教の外側を見て、お葬式が仏教だ、ぐらいにみているから、私らと朝会うと「ウワッ、縁起が悪い」と言って、塩をまいたり回れ右をしよる。こんなめでたいお方に朝お会いなさっているのに、なんという馬鹿な話だ。こういう連中が、名前を変えたり八卦(※占い)を見てもらったりする。

むかし、エライ縁起かつぎがおった、大みそかの晩に女中や男衆を追い回して、元旦早々掃除しては福の神が出てゆくから、今晩のうちに掃除せよと夜中まで大騒ぎをした。ようやくそれがすみ、かざりものをして、さあめでたいことばかり言えよ、縁起の悪い事なぞ言うんじゃないぞと、柏手(かしわで)をうって神様を拝んで、ひょいとすみを見ると黒い変なものがある。なんじゃこれはとちょっとつまむと、女中が夕べ雑巾がけしたその切れが落ちていた。「ウワッ、元旦早々から雑巾をつかんだ。縁起が悪い。屠蘇もやめや、年賀もやめや、めでたいことはあらへん」と泣き顔した。そこへ近所の粋なやつがやってきて、「おめでとうございます」「何がめでたい、今年は駄目や、元旦早々雑巾をつかんだ、もう縁起が悪うて……」と泣き面している。「雑巾をつかんだのならそりゃめでたい」「そんなことあるかいな。元旦早々なぶりなはるな」「いやそりゃめでたい」「何を言うてる、雑巾をつかんだのやがな」「それが本当にめでとうございますぜ、今良い句ができましたのじゃ」

雑巾を 当て字に書けば 蔵と金 あちら福福(拭く拭く)こちら福福

 ウワッ、めでたい、さあ酒一升持ってこい。こりゃとてもめでたいことになった。羽織出せ、袴だせ」それから一杯祝ったという。

これは、雑巾を当て字で書いたらめでたくなった。妙な話だ。めでたいと言えばめでたい。悲しいと言えば悲しい。嬉しいと言えば嬉しい。当て字で書いたり本字で書いたり、都合が良かったり、都合が悪かったりして、まごついているのが凡夫である。そこを決定的にめでたくなるのが仏教の安心というものである。

次回はこちら!



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