この記事は、パブリックドメインとなった『大法輪閣版 澤木興道全集』を元にして読みやすいように再編集したものです。 昭和の時代に“最後の禅僧”と呼ばれた高僧の言葉をコメントと共に紹介いたします。 |
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朗読していただきました!↓
「心心絶待仏仏現前」心心絶待ということは、自分自己を発揮することである。何が運が悪いと言っても、何が可哀想と言っても、何が憐れむべきものと言っても、自己を冒涜する物以上のものはあるまい。金があるから立派な人間で、金が無いから立派な人間でないという理屈は無い。これを「人人絶待」としてもよい。よく人々は位の高い人をたくさん並べて、だれがいちばん偉いだろうなどと言うが、そんなひがんだこと言わんでも良い。私はいつも「おれだ」という。「なんだあんな乞食袋を下げて…」と他人は言うかもしれないが、しかし俺は他人の鼻を借りて息をしておらん、おれはおれの鼻で息をしているんだ。自己を冒涜せず、自己を極度に発揮するのが成仏と言うのだ。
成仏と言うのは、おれがおれになると言うことである。それを反対に「あいつ成仏しよった」と言うのは泣き寝入りしたものによく言う。「あいつ、もがきやがったが、とうとう往生しやがった」という。これは弱いやつである。少しも、もがかないのが成仏である。 たいていの者は、どこぞ上手いエサがないかと探し歩くが、一生幸福にあわずにグルグル舞をしている。本当に自分の個々の足場をグッと踏みしめるのが幸福であり成仏である。つまり自己を発明することである。肥前佐賀の肥前論語、一名葉隠論語、鍋島論語の中に「釈迦も孔子も達磨も楠公も武田信玄も上杉謙信も鍋島の藩でないから」と書いてある。釈迦も孔子も達磨も楠公も、と、こう並べたところが痛快である。武田信玄も上杉謙信も鍋島の藩じゃない。そうすれはドイツもフランスもイギリスもアメリカも、ムッソリーニもヒットラーも問題じゃない。そんなものはどうでもよい、そしてシンミリと自己に親しみ最高最上の自己を冒涜しないで、外国人にかぶれないで、本当の自己を見出すということが、これが何より、われわれの幸福と言うものである。「心心絶待」である。そこで「仏仏現前」する。絶対自己を冒涜しない、それがそのまま仏である。その身そのまま冒涜さえしなければ、目くそがついていたらついているまま、化粧がはげたらはげたまま、財布が空っぽになったら空っぽのままで仏様ぞ、と言う。そこが「仏仏現前」である。 自分が自分の在り方に文句をつけない、だだをこねない、と言うことです。 熊本の第五高等学校長の溝口という方は、土佐の人で、故首相浜口さんと中学時代に同窓であった。ある時学生が「先生、あなたは浜口総理大臣と同窓だったそうですが」と言ったところが、溝口校長は「浜口は政治はおれよりましじゃが、教育ではおれが上じゃ」と決め込んだものである。人間にこの肚(ハラ)がなければ生きている甲斐がない。私は誰にも遠慮しない。たとい西郷さんと並んでも、政治家や軍人では向こうが上じゃが、坊主じゃおれが上じゃ。これでよいわけである。どっしりと、自分と言うものを強く大地に落ち着ける。これがすなわち仏仏現前である。 その下の句に「清白十分江上の雪、謝郎満意魚を釣る船」とある。これが坐禅である。自己と宇宙とのぶっ続き。我もなく宇宙もなく、天地とわれと同根、万物と一体と言うところを「清白十分江上の雪」といったのである。 「魚を釣る船の上で“もういいや”と思った人のこと」を言った一節です。 謝郎というのは、むかし、玄沙の師備(ゲンシャのシビ)という人が、三十いくつまで、おやじと二人で魚取りをしておった。ところがおやじがドボンと河へハマった。アッと思っておやじを救おうと船竿を出そうとする瞬間、「ハアー、われわれは水の中の動物をひっぱりあげて親子がこうして暮らしているが、どうせおやじも死ぬ、おれも死ぬ、おれが嫁を貰えば子ができる。そして、また子を産む。なんだ馬鹿らしい。もうこんなことは二度と繰り返すのは馬鹿くさい。やれやれ南無阿弥陀仏」といって水の中にハマったおやじをそのままに、頭をクルリと剃って坊主になった変わり者である。 これが三番目の息子であったから謝三郎といい、謝郎といったのである。今の、その場合のことを精一杯というのである。それが「満意」で力のありっきりである。前の句に「江上」とあるから「魚を釣る船」として、われわれが幸福を求めることを象徴したのだ。人生我ら一切衆生が天地一杯の大きい幸福を求める船、それを「魚を釣る船」とした。そうして宏智禅師は「参」といって、よくこれを参禅工夫せよと法語を詠まれたわけである。 これに限らず、「ばからしい、もういいや。」ってなる気持ち、 ちょっとわかりますよね。 「もういいや」は、必ずしもあきらめではなく、 納得も含まれた力いっぱいの「もういいや」です。
そのありさまを“絶待”と言います。
仏教語なので“絶待”ですが、絶対と呼んでもらって構いません。
意味もおんなじ“対立を絶した”有様です。