「なにが坐禅なのか」についての第六回!目です。 我らが道元禅師の主張を扱いますが、 大変複雑な上に、我々がこれまで経験してきた 現場をふまえての話になるので、詳しく知りたい方向けです。 |
前回はこちら
坐るから仏、仏だから坐る
A:「がんばるのをやめた “ありのまま” の自分が “さとり” です」
→「“そのままのありのまま” でいい」(自然主義・修行不要論)
B:「がんばって “さとり” を得ないと “ありのまま” はわかりません」
→「 “さとる” まではがむしゃらに頑張るぞ!」(手段としての “修行” なので、目的としての “さとり” を得たら修行は必要ない)
これまでの主張も、
多くの禅僧を育ててきたことには
違いありません。
しかし、AもBも、それぞれ
上記のような誤解を与えやすいという
現実問題があったようです。
ちょうど中国では宗の時代でしたから、
主張Bの全盛期だったようですね。
また、日本に帰ってからの道元禅師の元には
沢山の修行者があつまりましたが、
多くは主張Aの流れをくむ修行僧でした。
道元禅師にとってAとBの問題点は、
単なる概念上の論理的問題ではなく、
現実に直面していた実践的問題だったということですね。
「ありのままの 本来性は、今ここにある自分の現実の状態と離れていない」
ということは認めていますが、
「 本来性=現実の状態」であることは認めませんでした。
この点は、主張Bの人たちも
同じように批判していますから特に変わったことはありませんね。
道元禅師の主張Cの特徴は
主張Bでさえもハッキリと否定していることです。
「修行」と「さとり」を別けて考えることによって、
「修行」が単なる手段となり、
「さとり」が現在の自分と関係のないモノになってしまう。
それゆえ、「さとり」をいたずらに期待したまま
現実の状態と離れることの無い 本来性に気づくことがなく、
また、「さとり」を得たら修行が必要ないという誤解もされる。
という点です。
主張を誤解した僧侶たちへの批判に聞こえます。
道元禅師の時代には
そのような僧侶がよほど多かったのか
「こんな考えは外道以下!」とまで言ってますね…(笑)
「坐禅(修行)」をすることそのものが「さとり(仏)」であり、
「さとり(仏)」であるから「坐禅(修行)」する。
という、「修行=さとり」「坐禅=仏」の論理です。
そしてもちろん、
「坐禅」ということを大変強調します。
修行とは坐禅、坐禅が全て。
坐禅していない時でさえも坐禅をすることで修行となる。
しかしこれは…言いにくいことですが…
正直言って大変わかりにくいし、
実際お世辞にも人に伝わりやすいとは思えません。
坐って仏だとは思えないから皆こまっているんですからね…。
※このような道元禅師の主張は
「修証一如」【修行(修)と悟り(証)が一つ(一如)である】と呼ばれます。
僧堂で暮らしながら時間をかけて修行することを前提にした主張です。
結果は主張Aとほとんど同じ誤解をうけた
前回言った【a’・b’・c’】でいうと、
c’を極めて正確に言い表そうとした
主張であることは事実です。
a’:山は山 (修行前の “相対的ありのまま” )
b’:山は山ではない (“大悟”の時 =本来性 “非ありのまま” )
c’:山は “ただ” 山 (“大悟” 後の “絶対的ありのまま” )
しかし、c’を言おうとしているのはAの主張も同じです。
事実、主張Cが受ける誤解の多くは
主張Aと同じもので、
現在の曹洞宗においても
「坐っていればいいんだな^^」
という自然主義が多くみうけられます。
聞く側からしたらc’をいくら説明されても、
b’を未だに経験したことが無いので、
見た目が変わらないa’としか思えません。
前回の主張Bはそのような誤解を受けないために、
あえて「大悟」という段階を設け、
現実の状態と不可分の本来性を「さとる」ことに重点を置きました。
「疑い」と「大悟」という段階設定を用いた主張Bでしたが、
これはある種の方便(手段)と言ってもいいと思います。
一方、道元禅師はそういった方便を嫌い、
あくまで正確な「現実態と不可分な本来性」のみを言い表しました。
それを元にしたからこそ生まれた主張が
「修行=さとり」の主張Cなのですが…
主張Bが「手段」という方便によって克服しようとした誤解を
Cの主張内容だけでは克服できないという現実があります。
もちろん、「坐禅」の強調があるので、
坐禅に長くの時間をかければ、
それなりに得られるところがあるかもしれませんが、
それでも結局はAと同じ誤解を受けていますからね…。
だからこそ、「さとり」の言語表現としては
これ以上ないほどに洗練されているともいえます。
道元禅師はあまりに真面目に「言葉」と向き合ったと言ってもいいですね。
もちろん、だからといって、
主張Cを用いての教育が無駄だということはありません。
道元禅師は主張Cによって生まれる問題点も
しっかり理解して教育に当たったと思われます。
「修行」の定義
主張Cの問題点は、主張Aと同じです。
主張Bのように、
a’からb’・c’へと人を導く「方便」をつかわないため、
代わりとなる教育手段が必要である、ということです。
主張Aの場合は優れた指導者の教育力に依存することで、
個人の力量にしたがいa’からb’へと「大悟」するきっかけを作っていました。
主張Cにおいて道元禅師がとった代替案は、
「僧堂教育システム」です。
主張Cを扱う時には大変重要です。
そもそも、「修行=さとり」と言われても、
「じゃぁ、その修行ってなに?修行していないときはさとりじゃないの?」
という疑問が浮かびます。
その「修行」を規定する「僧堂生活」を道元禅師は非常に重要視しました。
つまり【生活環境そのもの】を【手段=修行=さとり=目的】に当てはまる
厳密なものに作り上げようとしたのです。
実は僧堂生活の規範や修行の心得など
多くの実践的取り決めは 『永平清規』という
書物の中にしるされています。
もちろん「坐禅」が修行の中心であることは強調されますが、
「坐禅」をしていない時でも
「僧堂生活」すべてが修行である、として、
トイレやお風呂、食事を含めた
生活全体がそのまま仏の行いであるとします。
主張Aの時代から言われていますね。
しかし、その “すべて” がそのまま「さとり」になると、
努力もせず、知識も経験もなしに「さとり」となってしまいます。
道元禅師は、その “すべて” を
坐禅を中心にした生活様式によって規定することで、
規範にしたがい生活すれば
自然と教育されてゆくような
「僧堂教育システム」の構築を目指したのだと思います。
「僧堂教育システム(概念)」の現実
と言いたいところですね…
残念ながら、
どう甘く見たとしても
現在の「僧堂教育システム」が
道元禅師の目指したものだとは言えません…。
「坐禅を中心に」とは言っても
お金が入る法要などに、より多く時間を使わざるを得ない現状です。
道元禅師の著作の中では、
簡単な雑用などは “人を雇ってさせるべき” として
修行とは区別していますが…
もちろん現在では、ほとんど修行僧が行います。
「生活のすべてが修行」ですし、人件費タダなので…。
仕方ないといえば仕方ないんですけどね…。
それでもせめて、
坐禅をしっかりしながら、十分な指導教育を受けられるのであれば、
生活のための手段は様々でもいいと思いますが。
なかなかそう上手くもいかないようです。
仕事のために坐禅もおろそかになるし
教育もまともにできないことが多いですからね。
さらにひどくなると、
「生活=修行=さとり」なので、
生活全体を適切に送るための「手段」も考えられなくなります。
「生活」のどこか一部を
「手段」として考えてしまうと、
道元禅師が否定する「手段としての修行(≠目的としてのさとり)」になってしまうからです。
「僧堂教育システム」が重要なのですが…。
道元禅師の計画上
資金源は「 施主(寄付をしてくれる人)」がほとんどなので、
現在のように「法要」や「お葬式」、「自給自足」などを含めた
「生活の手段」としての種々のビジネスは想定していなかったでしょう。
しかし、現代においては
そのビジネスすらを「修行」としなければ
論理が破綻してしまうので、
あくまでそれは「手段」ではなく、
時には坐禅より大事な「修行の全道」となるのです…。
ビジネスを修行の中心にしようとするとは
さすがの道元禅師も予想できなかったでしょう…(笑)
という大前提があるので、
どうしても手段と目的を分けて考えることができないんですよね。
だからこそ【生活(概念)のすべてが修行】という、
「僧堂教育システム」完成後の理想が生まれて、
「修行=さとり」と「生活=修行」が合わさって
「さとり=生活」となります。
この論理が成り立つと
なにしても「修行」なので、
「ぼくのかんがえた最強の修行」
としか言いようがない修行(笑)になってしまいます。
具体的に言うと、
「お経の上手さ」や「美しい動き」、「作物の収穫高」などが修行の結果(さとりの成否)となります。
これは声を大にして言いたいですが、
道元禅師の主張C「修行=さとり」を扱うときには、
「僧堂教育システム(未完)」の併用が前提であった
ということを曹洞宗侶は念頭に置くべきです。
日々の生活の中で、
少なくとも教育と坐禅がしっかり行われるような環境が必要ということですね。
「教育(勉強)は必要ない」
「坐禅するようなヒマがあるのはダメ」
という、よくあるあれは完全にアウトですね^^
それを言ったら、社会生活と全く変わらないですからね。
とりあえず、A・B・Cのまとめとして、
ここまで読んでもらった方にはわかると思いますが、
それのみで優れた主張は存在しない
ということが重要です。
少なくとも指導者の人間的能力や、
組織の教育システムが必要不可欠です。
まとめ(④~⑥)
- 指導者の人間的能力が高ければ主張Aだけでも十分
- 主張Bの「手段」が今もなお機能していればとてもよい主張
- 「僧堂教育システム(概念)」が完成していれば主張Cは最強だったかも…
次回へつづく
前回までのA・Bを共に否定することで
生み出された主張です。
A・Bが抱える問題を同時に乗り越えようとしました。