坐禅について第五回目です。 ありのままでいいとは言っても、実際に納得はできません。 そこで、納得できない現実にどう対応するのか、 しっかり教育効果を考えて生み出された、主張Bについてです。 |
前回はこちら
“ありのまま”自然主義
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Aの主張を聞いた際に
簡単に想像できると思いますが、
「ありのままでいいなら、なにもしなければいいんだな。」
と誰でも思います。
結果として、
なんの知識も経験もないままに
「さとりというのは、何もしない事」
と言い張ることになります。
この考え方は大変安易なものですが、
安易だからこそ人気があって、
実際に当時から現代まで
そのように考える人が多くいます。
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修行自体を否定する「自然主義」ですね。
これを言う人は、
なんとなく大人物のように見える
という理由のせいで、
世間に評判も悪くないので
勉強嫌いなお坊さんにとても人気です。
おそらく、この自然主義は、
曹洞宗に限らず、日本仏教全体で
かなり多くの人がおちいっている問題だと思います。
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とか言って子供作って酒をのむ人が
日本では結構うけるんですよね…。
ダメだとは言いませんが、
真面目な修行をおとしめるのはよくないです。
酒や妻帯は最近のこととはいえ、
こういった自然主義の禅僧は
中国の唐の時代からたくさんいたようです。
そんな彼らに対して
「バカか?そんなわけないだろ?」
と言ったのがBの主張です。
“さとって” はじめて “ありのまま” がわかる
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「公案」と呼ばれる禅問答を使いながら
頭でいくら考えても到達できない真実に
気がつく体験を目指します。
※主張Bは、宋の時代に成立した 『碧巌録』の著者である 圜悟 克勤と、その弟子である、 大慧 宗杲が中心となって生まれた。
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彼らの家風はとっても激しいですね。
「悩め悩め!悩みまくって悩みで破裂して死んでしまえ!」
というイメージがあります(笑)
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Bの主張をまとめると、
「ありのままでいい」と言われて
実際に納得できる人などいないのだから、
その “疑い” を突き詰めなければならない。
突き詰めた先に “大悟” を経験して
本来の “ありのまま” を見つけるべきだ。
ということになります。
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元々の “ありのまま” の状態では
決して “さとり” にはならないので、
元々の “ありのまま” が崩れ去るような
“大悟” を経験しないと
本当の “ありのまま” はわかりませんよ。
ということですね。
青原 惟信の
エピソードが有名でわかりやすいです。
“さとって” “疑い”のない真実を見つける
ある日、青原和尚が説法で言った。
「わたしは三十年前、まだ修行をしていないときには、山を見たら山に見え、水は水に見えた。
その後、良い指導者にあって、悟りの機会を得た時には、山は山ではなく、水は水でなくなった。
それが今ではあいかわらず山を見たらただ山、水を見たらただ水に見える。
さあ、諸君、この三つの見方は同じか否か?見きわめることが出来たら、本当に私を理解したと認めよう。」
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a’:山は山 (修行前の “ありのまま” )
b’:山は山ではない (“大悟”の時 = “非ありのまま” )
c’:山は “ただ” 山 (“大悟” 後の “ありのまま” )
の三つです。
このa’⇒b’⇒c’という段階を認めるのが
Bの主張の特徴ですね。
※ちなみにA・B・Cはそれぞれ、主張の中でa’・b’・c’を強調している(してしまう)と言ってもいいです。
(a’ が強調されてしまう A の主張では、「修行しなくてもいいじゃん」となってしまいました。)
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“大悟” の経験を表立って認めることによって、
「ありのままでいい」と言って悟ったふりをすることが出来なくなりました。
「“ありのまま” で納得してるの!?してないでしょ!?疑いが無いなんてそんなの病気だよ!修行しなきゃダメだよ!!!!」
ということで「“修行” して “さとる” こと」を大事にしました。
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「大疑なくして大悟なし」とか言いますね。
「公案」という禅問答が有名ですが、
この “疑い” を上手に使おうとした結果ともいえます。
しっかりとした真実の “疑い” を
抱くことが “さとり” へとつながる、としているので、
まずはどうしても解消できない “疑い” を抱くことが求められます。
いわゆる「禅問答」と呼ばれる中の、
本気で意味が分からない問答は、
ここでいう “疑い” を生み出すためでもあるようです。
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「両手をたたいたら音が出るけど、片手の音は?」という問いです。
この「隻手音声」を作った白隠禅師自身も
「この問いは今までのものより “疑い” が起こりやすいようだ。」と言っています。
従来の禅問答は、
その解釈を考えるのも勉強になったのですが、
「解釈をあれこれ考えることが不可能な問答」が、
新しくたくさん作られ、運用されました。
大雑把に言うと、
“解けばさとれる”「さとりドリル」
という問題集を作ったということです。
ちなみに、この種の問答は、
本当にまったく意味がわからない。はずです。
※ 「公案」によって修行をするため、「公案禅」とよばれますが、正確には 「看話禅」です。公案を文字であらわした「文字禅」と、師匠から与えられた公案を解くことを目指す「看話禅」に別れます。公案自体は曹洞宗でも用います。
どうすれば “さとる” か
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ある種の「段階の設定」と、
その段階を踏むための「手段の考察」がBの一番の特徴ですね。
実際にAと比べると、
自然主義の修行不要論が淘汰されるので、
教育面では比較的に優秀であるのも、
この「手段の考察」によるものだと言えます。
実際に、
日本臨済宗での白隠禅師の下では
数多くの優秀な禅僧が育っています。
※現代人からしたら「段階設定(現状と目標)と、その手段」といっても当たり前に聞こえますが、禅の歴史の中では様々な理由があって一般的ではありませんでした。次回、「段階と手段の設定」の弊害を指摘した主張Cを扱います。
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「解釈不可能な問答」の考察と運用という
多くの人間に適用できる「手段」を生み出したことは、
歴史を振り返ると実際に有効であったと言えますね。
前回はなした通り、Aの場合は、
一対一のアナログな人間関係が大変重要なので、
指導者の人間的能力が必要不可欠でした。
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前回の主張Aでは、
弟子が育つかどうかは師匠と弟子の能力しだいです。
そして遊心さんがいま言ったように
Bには「手段」があるので
Aのように指導者の能力に全面的に頼る必要はなくなりました。
Bにおいては師匠と弟子の相性や
師匠の能力に全てを依存しない教育が可能になったと言えます。
これは単なる憶測でしかありませんが……
A・B・Cの教育力を比べてみると、
教育面ではBに軍配が上がると思います。
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実際「人の育ち方」をみると、
『碧巌録』の影響や白隠禅師の作り上げたシステムは
多くの優れた教育を提供していると言えます。
システムをつくった大慧自身が
教育的側面をしっかり意識して考案したのも着目すべき理由です。
このようにして、現代までつらなる
素晴らしい業績を残した主張Bでした。
未だに禅問答などの「手段」が
アップデートされていないという問題はあるので、
あくまで現代においても有効なのであれば、
個人的にとてもよいとおもいます。
そして、Aはもちろん、Bも同時に批判したのが
道元禅師の主張であるCです。
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“修行” が手段で “さとり” が目的と言ってしまうと、
“修行” をしているときは “さとって” おらず、
“さとった” ら “修行” をしなくてもよいことになってしまう。
そうではなくて、
“修行” をすることそのものが “さとり” なのだ。
という主張ですね。
では次回、我らが道元禅師の主張を扱いましょう。
AとBの抱える問題を同時に乗り越えるために
生み出された優れた主張であると言えますが…
結果論として、
現代での教育における主張としては
あんまり使えないんじゃないか?
と思います…。
まとめ
- “さとり” という「目的」を設定したら「手段」を考えることが出来るようになった。
- 解けば誰でもさとれる「問題ドリル」を作った
- 「手段」を作ったので、必ずしも指導者の実力に頼らなくなった。
- 「問題ドリル」のアップデートがされていないので、もしかしたら期限切れの可能性…。
次回へつづく
前回あつかった、Aの主張をふまえて、
今回はBの主張についてです。