【レビュー】「マインドフルネス×禅」であなたの雑念はすっきり消える(山下良道)


近年流行しているマインドフルネスと、伝統的な

違いと共通点を探った上で両者を掛け合わすと。これまでの仏教では見えていなかった地図が出来上がる。

本場で徹底的に修行した僧侶が提案する「マインドフルネス×禅」とは何か。

 

著者について

山下良道さんの『「マインドフルネス×禅」であなたの雑念はすっきり消える』の感想です。

著者は日本の禅宗(曹洞宗)で出家修行を行った後に、東南アジアの上座部仏教で比丘になった経歴をもつ僧侶です。

現在は神奈川県稲村ヶ崎で瞑想指導を行っています。(一法庵のサイト

禅とマインドフルネスの両方を本場で長く学んだ人物として注目されている方です。

安泰寺で修行されたということで、私たちの先輩ということにもなります。

マインドフルネスと禅

現在世界中で流行しているマインドフルネスですが、元々は上座部仏教でよく用いられる「サティ(気づき)」からきているものです。

ほとんどの瞑想指導者が仏教の修行の中で重要なものとして扱っているので聞いたことがある人も多いと思います。

しかし、日本仏教の中では「サティ(=マインドフルネス)」は表立って取り上げられてきませんでした。

漢訳では「サティ=念」とされているのですが、禅の修行では「念(=思い)」と定義されて、否定的な文脈で捉えられてきました。

 

世界的な瞑想指導者が口を揃えて重要なものだという「マインドフルネス(=サティ)」。

反対に、伝統的な禅の修行では否定されるべきものとして扱われた「」。

 

著者の人生を通して、この一見矛盾にみえるものと関わった軌跡が描かれています。

キーワード:「私の二重構造」

この本のキーワードとなるのは「私の二重構造」というものです。

  1. 生老病死する私―thinkingマインド、エゴの私
  2. 生まれることもなく、死ぬこともない私―本当の私、青空としての私、もうひとつの私

 

これは「私」というものの二面性をあらわした表現で、大乗仏教ではよく見られる分け方です。

禅では「本来の面目」のような言葉で、通常の私とは不即不離だが異なるものとして扱う伝統があります。

大乗仏教全体でも仏性や如来蔵、真如などがよく言われます。

「無我を説いている仏教が、真我を説くヒンドゥー教化している!」と指摘する方もいますが、伝統的にこのような区分けがされるのは事実です。

 

著者によれば、テーラワーダ仏教ではこの区分けをしないと言います。

そしてテーラワーダ仏教と大乗仏教を、二夜連続放送のドラマの第一話と第二話に例えています。

第一話のテーラワーダ仏教では「私の二重構造」が明確になっておらず、修行の最終段階で初めて明らかになります

そのため、「本当の私」ではない「エゴの私」が瞑想をしても原理的にうまくいかないのは当然であるとしています。

反対に、第一話を見ずに第二話の大乗仏教だけ見てしまうと、第一話で前提となった「本当の私」という事実に得心していないので、いくら修行しても納得がいかないことになります。

そして、著者は一話と二話を合わせた「マインドフルネス×禅」の必要性を説いています。

本当の意味でのマインドフルネスとは、「生老病死する私―thinkingマインド、エゴの私」が落ちているところでしか行われないものであることに、気づかなければなりません。

つまり修行の主体を「エゴの私」から「本当の私」へジャンプさせることが必要であるということです。

 

さらにこの本では「道元はマインドフルネスを知っていたか」という問いかけから、「私の二重構造」というキーワードを使って、『正法眼蔵八大人覚』や『普勧坐禅儀』を見ていきます。

そして慈悲とマインドフルネスの関係から、オウム真理教の事件、そして人間の「生死」まで言及しています。

 

著者はこれらのテーマにおいて「生老病死する私」と「生まれることもなく、死ぬこともない私」の二重構造の理論をベースに話を展開させていきます。

 

実際に著者が行っている瞑想のインストラクションの部分もあって、全体としては「理論―メソッド―応用」となっており、非常に読みやすく参考になる本でした。

 

所感

地図の提示と再現性

もう、みなさんは目的地もわからず、坐禅するのではありません。

どのように飛ぶかわからず、坐り続けるのでもない。

行き方も行き先もわかったうえで、飛びたい人は誰でもそこへジャンプできるようになるということです。

著者はこれからは、「マインドフルネス×禅」という地図をもって目的地と方法を明確にした上で、坐禅や瞑想を行うことができる時代になったと主張します。

そして、いい意味で「大衆化」されるべきであるとしています。

これまでは(少なくとも曹洞禅では)、どこに向かって何をするのかが明確に打ち出されていることはあまりありませんでした。

むしろ目的と手段を分けることは否定的に考えられてきたともいえるでしょう。

 

これは禅(曹洞宗)で修行した身としては非常にわかる話です。

何のために坐禅するんですか?

坐禅するとどうなりますか?

何のためでもなく坐る。

お前の『ここからどこかへ』という意識こそが問題なのだ!

この問いに対する返答は、禅では金科玉条のように守られ、お決まりの伝統芸能となっています。

私自身も禅の師匠が言うように、「〈目的―手段〉の連関内で意味がある、意味がない」と決める癖こそが問題であると思います。

 

しかしそのような世界観しかもっていない人に対して、異なる世界観をいくら提示したところで何も変わりません。

そして、ごく稀にわかった人がいても、その人の機根(才能)の問題であったという話になってしまいます。

これは禅修行における、再現性がなかったということにつながります。

再現性がないとは、弟子が育たないことと同じです。

著者は、高名な禅者の澤木興道師や内山興正師を評価した上で、禅の文脈は再現性がなかったことを問題点とし、自らのメソッドは再現性があるものとしています。

日本の禅の歴史を見ると、「本来の自己」に確たる「再現性」がなかったとも言えるでしょう。

(中略)しかし、なかなか後が続かない。

なぜなら、多くの方が、老師たちと同じ状態に入っていけないからです。

禅に再現性はないのか

 

果たして禅には再現性がないのでしょうか。

少なくとも、日本の曹洞禅には当てはまることが多いかもしれません。

先ほど触れたように、目的と手段を無媒介等置を行うことが多いため、主張としては以下のようになります。

ただ坐ればよい。

それがそのまま涅槃じゃ。

つまり、最初から「ただ坐る」ことのみで、すべてを説明しようとする傾向にあります。

実際には指導者によって様々なので、難しいところだと思いますが、少なくとも目的と手段を分けて語るようなことを強調はしません。

 

日本でヴィパッサナー瞑想やマインドフルネス瞑想が流行っている理由としては、

著者の言うように、伝統仏教で「本当の私」を感じられない人が多かった、ということがあると思います。

 

私の経験からしても、

只管打坐を修行しにきても、真剣に修行しようとする人ほど、日本の修行道場を去っていくという現象があったように感じます。

 

しかし、禅の歴史すべてにおいて、再現性が意識されていなかったとは思いません。

宋代の禅者の中には再現性に意識を向けて、看話禅を作り上げた禅者がいましたし、

 

『感じて、ゆるす仏教』のレビュー(↓↓)でも触れましたが、日本でも江戸期の不生禅(盤珪)と公案禅(白隠)の対比においても、再現性を求めた公案体系があったことが伺えます。

 

これらをみると、禅の中でも一筋縄ではいかないので、一概に再現性がなかったとは言えないと思います。

 

テーラワーダ仏教での「私の二重構造」

私はテーラワーダ仏教で修行したことがないので、厳密なことは言えませんが、「私の二重性」に関してはテーラワーダの修行者からも反論がありそうな気がします。

外から教義を見る限り、厳格な無我説をとっているので「本当の私が瞑想する」と声を大にして言っていないと思います。

しかし、瞑想の主体が「エゴの私」や「thinkingマインド」ではないことは、自明のような気がします。

著者ご自身もパオ・サヤドーのアドバイスで、「私の二重構造」の着想を得たとのことでしたし、

同じミャンマーの瞑想指導者であるウ・ジョーティカ・サヤドーも『自由への旅』の中でこう言っています。

ミャンマーでは瞑想する際、身体をブッダに明け渡してしまいなさいと、多くの先生が言います。象徴的に、自分自身をブッダに捧げてしまうのです。それはもう私のものではない。私のものでないのであれば、それについて心配する必要はない。これは象徴的な放棄です。

(中略)「自分自身の操縦桿を握り続けること」
私たちはこれを無意識にやってしまう。それが問題なのです。

これは瞑想する時に、安全な場所を確保することについて話されたことですが、
私たちは無意識に自分の心身について考え、コントロールしようとする」ため、それを放棄しなさいと忠告しています。

そうなると、瞑想する主体は「エゴの私」や「thinkingマインド」ではありません。

さらに、これは瞑想をする前段階の初心者に対する忠告であるため、瞑想者にとってほとんど自明なのではないでしょうか。

 

こうみると、テーラワーダ仏教でも「本当の私」とは言わないだけで、「私の二重構造」を前提に瞑想していると言えると思います。

 

しかし、自明であるために着目できないことも多々あるので「私の二重構造」という問題意識を提示したことには意義があると思います。

 

まとめ

他にも、「午前三時問題」や「オウム真理教問題」など書きたいことがあったのですが、長くなってしまったので、この辺りで終わります。

 

この本は、著者の実際の体験がベースになっているので、禅やテーラワーダ仏教を正確に理解する本ではありません。

むしろ、現代に生きる私たちが仏教の修行をする上で抱えやすい問題を著者自身の経験から引き出して、「理論―メソッド―応用」としてまとめあげたことは称賛されるべきものだと思います。

 

本を読んで興味を持ったら、何よりも実際に瞑想指導をされているそうですので、まずは現実に体験してみることがよろしいかと思いました。(一法庵のサイト

 



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