前回はアメリカ仏教界で、ドラッグの使用と仏教の実践がどんな形で結びついているのか、
具体例を見ました。
今回はドラッグ肯定派ではなく、警告を促している側を見てみたいと思います。
元記事はこちら(英語サイトです)
Lion’s Roar 「The New Wave of Psychedelics in Buddhist Practice」 BY MATTEO PISTONO
まとめがわかりやすくなっております!
サイケデリックスは危険なモノ?
過去10年間の仏教の実践においてサイケデリックスの使用が増えたが、サイケデリックスにはリスクがないわけではありません。ほとんどのサイケデリックスはアメリカでは違法であり、ニクソン政権がLSD、マッシュルーム、および他のサイケデリック物質をスケジュールⅠの規制薬物(コカイン、アヘン、メタンフェタミンよりも厳しい規制)と分類してきました。
しかし、法律的な問題から離れてみると、サイケデリックスが身体や心に害を及ぼす可能性があるのでしょうか?
一般的なリスクには、一時的ではあるとはいえパニック障害または激しい恐怖を経験する、といった「バッド・トリップ(bad trip)」の報告が頻繁にされています。また、南アメリカのアヤワスカ リトリートでの死亡事故(ペルーで18歳のアメリカ人と、アレルギー反応を起こしたと報告されているコロンビアの19歳の英国人学生の原因不明の死など)が発生しました。
また、 Valerie (Vimalasara) Mason-Johnによれば(the Buddhist Recovery Network の代表であり、『Eight Step Recovery: Using the Buddha’s Teachings to Overcome Addictions ブッダの教えで中毒に打ち勝つ8つのステップ』の共著者)、サイケデリックスを使用することは中毒から回復しようとする人々に特に危険をもたらす可能性があるとしています。
「アヤワスカに惹かれる私がいる。 しかし、私は”自分が中毒者である”ということを覚えておく必要がある。 アヤワスカで私は「悟り」を数分間垣間見ることができるかもしれない。しかし、私は中毒に陥りやすいので、その危険を冒す準備ができていません。」
Mason-Johnは、もし仏教の実践者がサイケデリックスを扱うことを望むなら、それは治療するという文脈で行われるべきであると強調する。「あなたの潜在意識から(サイケデリックスによって)様々なことが明らかになりうるでしょう。」と言います。
「サイケデリックスは全員のためのものではない」とCalifornia Zenの指導者が警鐘を鳴らしています。
「潜在的な精神病または統合失調症を有する人々、または自殺願望のある人は、サイケデリックスを臨床現場の外で扱うべきではないとしています。サイケデリックスは意識の倉庫のバルブを開くようなものであり、最も深刻な習慣や思考や行動のパターンをすべて一気に放出します。純粋な意識の広大さと明晰さはそこにありますが、サイケデリックな経験の混沌や恐怖さえも認識することは困難である時があります。」
Douglas Ostoの『Altered States: Buddhism and Psychedelic Spirituality in America 変性状態:アメリカにおける仏教とサイケデリック・スピリチュアリティー』では、意識の変性状態を求めることが仏教の瞑想実践の中核であると主張し、これには危険性があると言います。彼はサイケデリックスによって精神病やパラノイアの発作を引き起こした自分自身や他人の経験を記しています。
幻覚を誘発する量の大麻を摂取した後に何が起こったのかを記述して、「身体的・心理的バランスを完全に取り戻すには、数カ月の専門的な助けとリハビリが必要だった。」としています。
Washamは、禁止された薬を摂取している、またアヤワスカの経験が強すぎるという理由で、リトリート参加者の約20%をふるい落としています。
他にもHornとJohns Hopkins Medicineでのサイケデリックス研究者のパイオニアであるKatherine MacLeanは、来年の冬にはジャマイカで「Mushrooms for Meditators 瞑想のためのマッシュルーム(向精神薬)」を開催する予定です。彼らもまた、リトリート参加者を受け入れることについて慎重であり、すでにリトリート経験を持つ人を選好している。
「瞑想のリトリートをするだけでも難しいのですが、サイケデリックスと組み合わせるのはさらに難しい」とHorn氏は指摘する。 「私たちは、人々のこれまでの瞑想のトレーニングによる明晰さによって、サイケデリックな経験を安全にナビゲートできるようにしたいと考えています。」
仏教の実践においてサイケデリックスの使用に熱を上げていた人でさえ、最近は定期的に警告の旗を掲げる。 ゾクチェンの教授Keith Dowmanは最近、著書の『 Everything is Light 』にサイケデリックスが「心の本質を完全に認識するシンクロニシティな瞬間をもたらす機会を提供する」と書いた。
しかし、同時に、心の本質の明晰さと束縛されない広大さは、サイケデリックスを使用している間に明らかになるかもしれないが、幻視、幻覚といったサイケデリックな現象が常に伴われるという課題がある、ということを記している。
サイケデリックスに慎重にアプローチする理由は他にもあります。Lama Karmaはアヤワスカに対する深い感謝を表しながら、サイケデリックスはエゴを大きく高めてしまうと警告している。
「サイケデリックスの経験は、あなたが深く解放されていると信じられる方法です」と彼は説明します。
しかし一部の人々は、いわゆる「解放の経験」から、自分は人生が根本的に大きく変わり、ほかの人々は同じところをぐるぐると回っているだけだという「別のもの(傲慢さ)」へと変化していまいます。」
チベット仏教のアメリカ人指導者であるLama Urgyenは、より実存的な関心事を持っています。
「自己と世界について深い信念を持ちたいと思っていない限り、サイケデリックスには手を出さないでください。」と彼は説明します。
「信念は思考によって構築されます。サイケデリックスはあなたの信念に注がれる溶媒のようなものです。 そして、信念構造を解消することは、仏教の究極のポイントですが、サイケデリックスを使って行うことは、すべての実践者にとって理想的だとは限りません。」
仏教指導者の中には、サイケデリックスが真の目覚めをもたらすことができる、ということに関して懐疑的な意見があります。
Cittaviveka僧堂、前住職のAjahn Sucittoは、20代前半にサイケデリックスを試し、解放の道はもたらされないという結論を出しました。
「サイケデリックスは、心の強さ、美徳、暖かさ、洞察力をもたらさない」とSucitto氏は語ります。
「代わりに、心は受動的になります。現実は、感覚によって構築される、呪文のようなものであることを示していますが、その呪文がどのように現れ、どのように消えていくのかは明らかにしません。 実際に、サイケデリックスは知覚が変化した別の呪文を唱えるだけです。」
彼が言っていることを別の言葉でいうのであれば、私たちの通常の現実は、
認識した現象という “ペンキ” を塗るようなこと、ともいえます。
私たちは感覚を通して、無意識にペンキを塗った状態で「現実」を認識する。
仏教の実践は、ペンキを塗っている時、塗り方を洞察する。
しかし、サイケデリックスはそのペンキの色を変えただけであり、根本的な解決にはならない、とここでは言われています。
ペンキの色が変わることもあるとは夢にも思わない人にとっては、
サイケデリックスによって、今まであたりまえだと思っていた世界とその認識が覆るような経験は、
今までの記事にあるように、人によっては価値あるものだと言えるかもしれませんが、
彼の言うように色を変えるだけでは根本的な解決ではないですし、
仏教とは関係ありません。
さらに、多くの仏教徒は、サイケデリックスの使用が中毒性からの棄権(不飲酒戒)という仏教の教義に反するとしています。 仏教のテキストでは、 “酒、ワイン、そして他の酔わせるものを控えること”となっています。
しかし、サイケデリックスの使用を擁護している人は、彼らを中毒者とはみなしません。ワシントンの禅指導者が表現しているように、「サイケデリックスは私たちの経験を歪ませていない。 むしろ、サイケデリックスで起こることは、通常の(あたりまえだと思っている)概念的な中毒が取り除かれることです。」
しかし、誰もがこの種の議論に揺さぶられているわけではありません。サイケデリックスを経験した者を含む仏教指導者の一部は、サイケデリックスの経験が実際に中毒の一種であり、その使用が仏教の五戒の精神に反していると結論しています。
「私はサイケデリックスがアルコールよりも有害ではないと考えますが、本質的に私の心を怠け者にしました。」
「サイケデリックス使用の後、注意、忍耐、感情的な回復に約5年を要した。」とAjahn Sucittoは言います。
心が「する」(知覚や意識にしがみつくことを放棄する)ことよりも、心が内容を「見る」(知覚や意識にしがみつく)ことが重要であるという考えを手放すには時間がかかりました。
その放棄をするためには、意識と知覚(そして集合体の残りの部分)が自然に生じるという現実の事実を知る必要があります。なぜなら、ここが心の内なる強みと美徳がある場所だからです。 だから、私たちはボールを交換するのではなく、むしろボールの扱い方を学ぶのです。
身近な例をあげれば、ラーメンを食べるか、ケーキを食べるかが重要なのではなく、
その前段階にある「食べたい」という思いや、選ぶ際の心の動きのほうがより重要である、ということです。
今回はドラッグの使用を警告している人の意見を見てきました。
次回は、こんなにも警告している人たちがいるのに、なぜドラッグを使うのか、という理由について見ていきます。
次回に続く
まとめがわかりやすくなっております!
優れた記事を日本語に要約してご紹介する企画です。
日本文化としての仏教に慣れ親しんだ日本人にとって
時には新鮮な発見もあるかもしれません。