【ブックレビュー】禅思想史講義(小川 隆)


 

今回紹介する本は小川隆さんの「禅思想史講義」です。

仏教を何もしらない人が読むには、なかなか大変な本かもしれませんが

ある程度仏教の知識があるよ」という人にとっては、というものがどんなものなのか、わかりやすく紹介しています。

良くまとまっているのにも関わらず、扱われている内容は本質的で、本書以上の知識は禅修行において必要がないほどです。

禅宗と坐禅

禅宗と聞くと「坐禅」を組む宗派というイメージがあるかもしれません。

実際それは間違っているとはいえませんが、禅宗には以下のテーゼともいうべきものがあります。

禅宗における坐禅の重要性を否定するつもりは毛頭ないが、にもかかわらず、中国の禅の語録を読んでいくと、「坐禅の解体」と「日常の営為の肯定」、それこそが禅思想の基調であったのだと感じないわけにはいかない。

坐禅はたしかに重要なものだけれど、それにとどまらず日常生活はさらに重視されること。

 

要するに、坐ってだけじゃだめ!生活のすべてが修行!、という大前提を生み出しました。

 

馬祖系と石頭系の対立

その大前提の上で、唐代の馬祖系石頭系での対立は現代にも通用する象徴的なものだと思います。

結論から言うと、その対立は

「ありのまま」の自己を「そのまま」肯定するか、

「ありのまま」を超えたところに「本来の」自己を見ようとするか、

でした。

 

馬祖禅の特徴

  1. 即心是仏:自らの心がそのまま仏である
  2. 作用即性:自己の身心の自然な「はたらき」は、全て仏性の現れに他ならない
  3. 平常無事:人為的な努力を廃して、ただ「ありのまま」でいるのがよい

 

自分が営む生活のすべては、仏の現れであるから、そのままの自分がすでに悟っている。

「仏教の修行」という特別なものを作り出さずに「ありのままの」自分というものを、そのまま肯定したのが馬祖禅の大きな特徴でした。

 

現代的にいうなら、サッカー選手になりたいとか、偉い人の話をきいて自分の成長の糧にしたいとか、そういった特別な目的意識を持つことなく、はからいのない普通の生活をすることが、そのまま悟りであるということ。

 

この馬祖禅の流れを推し進めた、中国禅の頂点を極めたともいわれる臨済義玄はこう言っています

諸君、仏法には修行の余地などない。ただ「平常」「無事」であるのみだ。糞をたれ小便をし、服を着て飯を食い、眠くなったら眠るだけ

 

石頭系の特徴

 

馬祖系の「ありのまま」の自分をそのまま肯定することで十分なのだ、という主張はそのあとに石頭系の禅風との対立を生みます。

石頭系は「ありのまま」の自分をそのまま肯定するのではなく、それを超えたところに「本当の自分」を見つけよう!とするものでした。

確かに、馬祖系の話を聞いたら誰だって、「えっ、このだらしなくてダメダメな自分っていいの?」ってなります。

 

結果として、この対立は本の中で「円環の論理」で止揚されたことになっていますが、このような対立はいまでも続いています。

 

この対立構造は仏教の歴史を物語っているともいえるかもしれません。

仏教に触れるときには、この程度の「」をもって、話を聞くと整理されていいと思います。

 

 

実際の現場の話

 

全く個人的な感想になるのですが、実際の禅修行の現場では、馬祖系の禅ともとれる発言を多く聞くことができます。

 

「ありのままでいいのだ」

「はからいを止めよ」

 

ということばは日常茶飯事に聞きますし、これが変な方向に押し進められると

 

「おまえは、ありのままでない。ありのままになりたければ、何でも言うこと聞け

「おまえは、はからいを止めていない。はからいを止めていれば、崖の上から海にジャンプできるはずだ。」

 

と、「無我ハラ(記事は↓)」にも似たことを言われます。

無我ってなに?:おまえなんてどうでもいい!

2018.08.21

 

がんばって耐えている修行僧もいるのでしょうが、それで「何かに気づいた!」という人はとても少ないような気がします。

禅修行は頭で行うものではない」と言われますが、歴史の先輩たちが歩んできた道を学ぶことは実際の現場においても非常に有効ではないかと思います。

 

まとめ

  • 禅を歴史的観点から立体的にとらえられる本
  • 馬祖系と石頭系の対立構造は今でも続いている
  • 無我ハラ構造も忘れずに

 









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