無我ってなに?:おまえなんてどうでもいい!


この記事について

無我ってなに?無常との違いは?

「ワガママ言うな!」という意味で

「無我になれ!」というのは無我ハラスメント!?

仏教の悟りに直接関係する“無我”について語ります。

前回はこちら

ふりかえり動画はこちら!↓

無我ってなに?

道宣
今回は「諸法無我」です。
遊心
これって、はじめて見たとき感じたことですが

前回の「諸行無常」とめちゃめちゃかぶりませんか?

道宣
あぁ、初めに比べた時はすごくややこしかった記憶があります。
遊心
学校で習ったときには

(同じじゃん)

と思いました。

道宣
「諸行」と「諸法」

「無常」と「無我」

どれも同じ語感に見えますからね。

遊心
はい。

「行」と「法」

「常」と「我」

の違いが、はっきり分かるといいのですが。

道宣
まずは「法」ですが、前回のこの図を見てください。


遊心
またこの図ですか…。
道宣
わかりやすいですからね。

この図で言うと

「行」が有為法でした。

それと比較して

「法」は無為法も含みます。

遊心
わかりやすく言うと

認識以前の対象も含むってことですね。

道宣
…まぁそうなります。

この違いは、だから何だという話ですが。

遊心

「無我」を語るときには

「諸行」だけでなく

「諸法」まで言わなければならなかったということだけ

今回は詳しくつっこみませんが

なんとなく聞いておいてもらえばいいですね。

修行での「我」:「無私」と「無我」

道宣
では「無我」ですが

「我」の一般的なイメージってなんですか?

遊心
おぉ、道宣さんが一般的なイメージを気にするなんてめずらしい。

(いつもは「常一主宰の主体が……」っていきなり言い出すくせに。)

道宣
さすがに私も、それくらいのギャップはわかります。
遊心
(ほんとかよ…)

そうですか。

まぁ、「我」っていうと一番思い浮かぶのは

「わがまま」と言われるときの「我」じゃないですか?

道宣
そうですよね。

僧堂で修行しているときにも

よくその文脈で「無我」を言う人いました。

遊心
「まずは我を捨てて人の言うことにしたがって…」みたいな?
道宣
そうそう!

それも大きな意味で間違ってはいないのですが、しかしです。

ここは重要ですが、それだけでは「無私」と同じ話になってしまうんです。

遊心
無私為公」ですね。

わがまま言わずに人のために働きなさい。

ってやつですね。

道宣
そうです。

「無我」の話は根本的に道徳の話ではないので

「無私」だけでは足りません。

遊心
でも道宣さん

お坊さんの説法ですら、

「無我の話」って、

「ワガママを言わない話」が99%占めますよ。

道宣
なんでですかねー。

やっぱり日本ウケがいいんですね。

遊心
儒教の影響強すぎ伝説

ですね。

道宣
それです。

なんでも道徳的にとらえちゃう問題です。

遊心
「無我」についていえば

自分勝手を捨てて人のために…という

「無私」という個人的行為の状態

ではなく

全ての存在の性質そのものですね。

道宣
はい。

物事に「我」というナニカはありません。

ということです。

おまえなんかどうでもいい!って意味で

「無我になれ!」が言われていると思います。

わかりやすく言い換えれば

「お前なんかねぇよ!」

ですが。

修行の上での事実そのものです。

遊心
ではその「我」とは

「無私」の「私」とはどう違うんですか?

道宣
これは文脈の問題なので、

今の話での我と私に限っての話ですが、

「私」は社会的な自分を指す、と言って良いと思います。

遊心
職業とか、性別とか

様々な性質をもった“人間”のことですね。

道宣
はい。

それに対して

「我」は人間に限っての話ではありません。

遊心
生き物にもとどまらず

すべての存在を対象とした「本質」のことだ

と言うとちょっと言いすぎですか?

道宣
うーん、難しいラインですね。

厳密には「常一主宰の実体我」とも言われますが。

遊心
(やっぱり言い出した…!)

よく聞きますね。

でも正直言って初めて聞くと

わけわからないと思うのでそれ使うの禁止しましょう。

道宣
じゃぁとりあえず「本質」でいいです。

我々が物事を “それ” だと認める根拠となる

「本質」ということで。

遊心
その「本質」があるからこそ

「りんご」を「りんご」って認識するわけですからね。

私ここらへんプラトンのイデア論っぽくて好きです。

道宣
「りんご性」ですか!?
遊心
(やべっ…)
道宣
リンゴがリンゴであるということが無我であるということはリンゴの自性が空であるということにつながっ……!
遊心
ごめんなさい。

待ってください。

道宣
え?大事な話でしたよ?
遊心
いまのところは見送りましょう。

この話は。

わかりやすい経験談か何か

このあたりでありませんか?

無我についての、誰かのお話でもいいですけど。

「無我ハラ」という現実

道宣
ありすぎてこまるんですが…っ!

細かく言えば、無我ではなく無私についてですが。

遊心
そうですよね。

僧堂教育の上下関係ではめちゃありますね。

道宣
実際に「無私」以外の意味で

「無我」を使ってた人は思い出せません。

遊心
だから困るんですよね。

たいていの話が「人の言うことを黙って聞け」とか

「主張ばっかりするな」

という意味での「無我になれ!」ですからね。

「無我ハラスメント」ですよ!

道宣
「無我ハラ」(笑)

しっかりと教えられる側にとって

「無我」が道徳的行為ではなく事実の説明であることを

教える側の言葉でわかってもらえているのなら、いいのですが。

遊心
そういう勉強的な教育はあまりされませんからね。僧堂。
道宣
そうなると、もう道徳的な話だけになってしまいます。

さらに言えば、その「無我になれ!」を

むやみに信じるのは危険な場合があります。

遊心
そうですよね。

「無我になれ」と言われて

すべてを投げ出して修行をするのは大事ですが

信頼する人を間違えると

大変なことになります。

道宣
でも実際その「無我になる」のは大変だから

修行している気になります

なにより日本文化において生活する上ではある種の成長が得られます。

遊心
そこがややこしいですね。

ビールつぐのうまくなったり

懐で草履あたためたりするようなことができるようになります。

ただ、そういう人格的成長の先に

「無我」があるのではなくもともと事実上「無我」です。

だから言うのであれば「無我になれ!」

ではなく「お前は無我だ!」ですね。

道宣
そうですね。

しかしそうは言われても

「無我」であるという納得は生まれません。

もちろん勉強すれば論理的に

「無我」を理解することは可能ですが

一番大事なことは、その“無我”を修行する中で

「ホントウにわかった!」

という納得を持つことです。

遊心
事実として

その「無我」を認めた上での行動

本来の意味での修行なわけですしね。

道宣
はい。

そして「無我」を本当にふまえているのであれば

実際たしかに “ワガママ” は言わなくなります。

遊心
主観的にはね。

人から見たらどうかはしりませんが。

道宣
まぁ、遊心さんは誰から見てもわがままですからね。
遊心
よく言われますけど

私の中では驚くほど無我ですよ?

そこんとこよろしく。

道宣
……。

まぁ無我かワガママかは

曰く言い難しってことで。

遊心
じゃぁ最後に

道宣さんが言われたことのある

「無我になれ!」系説教でしめましょう。

道宣
うーん。

いろいろあるなぁ。

一番ひどかったのは「無我になれば酒くらい飲める!」かな?

遊心
最低ですね。

「無我になれば死ぬまで働けるはず」というのもよく聞きます。

道宣
サイテーですね。

お坊さん。

遊心
ですね。気を付けましょう。

まとめ

  • 「無私」と「無我」の違いが重要
  • 「無我ハラ」は実在する・・・・・・!?
  • 全ての現象は、「苦」であり「無常」であり「無我である」

次回は「涅槃寂静」だよ!



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