この記事について 仏さん、っていうと死んだ人のこと。 それは誤解です!文化的にはそれでいいんですが……。 かなり本質的な話まで話してますが、わかりやすい会話なので 仏教について知りたいどんな人にもおすすめです! ジョジョを知らない人はすみません……。知らなくても大丈夫ですよ…。 |
ほとけ…死んじゃったの…?
たしかに何を指して言っているのか
すごくあいまいな言葉です。
死人
のことですからね。ホトケっていうと。
お坊さんからしたら
「なりたいよっ!」
って感じですよね。
仏とは、われわれ坊主からしたら
あくまで悟りをひらいた目標的存在ですからね。
今回の「ホトケ」は、その文化的な誤解のことではありませんよね?
今回の「ホトケ」は、仏教ほんらいの意味での「ホトケ」を
対象にお話をしたいです。
内容の都合上「佛」と旧字体で表記します。
「人」を「弗(はらう)」と書いて「佛」ですね?
人間としての苦しみの生存を “解脱” した
「佛」のことです。
わたしのよく言う
人間オワコン説
ですね
オワコンだと感じた人間は必然的に
「佛」を目指す修行に入る、と言っても良いかもしれません。
???「人間を超えるものにならねばな……」
どうしても“人間が頑張って”
“スゴイ人間になる”
ことを話してる人多いですね。
完全な誤解です。
簡単に納得はしてもらえないと思いますよ?
しかし、とりあえず「佛」とは
死人でもなく
もっというと人間でもない
ことをしっかり覚えておいてもらえれば。
ってことですね?
……まぁDIOは人間的欲望で吸血鬼になっているので
吸血鬼になったとはいえ “強い人間” と変わらず
人間の延長線上から出ていないので、
佛とは言えないわけですが。
まぁ、よくわかりませんが
“人間の延長線上”っていうのは
わかりやすい言葉かもしれません。
人間とは・・・
言い換えると、人間として想定できる
あらゆる存在の在り方のことです。
こうなったらいいなぁ
とか
こうなったらこまるなぁ
ということが想定可能なありかたをすべて含めます。
つまり人間にとっては“生きていること”です。
生きていること
つまり“人生”における出来事すべてですね。
「佛」のにんべんが表す「人」は
その“人生”!
それを拂拭する!
人間存在を根本的に取り払った
われわれが人間として認識した上で
想定不可能なモノです!!!
これめちゃめちゃわかりにくいです。
合わせてくれてありがとう。
人間存在っていうと一般に人間の物質面
つまり肉体が思い浮かぶとおもいますが
その説明だと、佛になるってやっぱり死ぬことです。
人間、自分とは何かということをしっかり考えると
肉体のどこをとっても、これが自分とは言えません
腕だけ切り取られても、わたしではないですからね。
これは体全体でもおなじです。
いいじゃないか にんげんだもの
では私という存在のどこに“人間としての私”がいるんでしょう
そんなのは
いません
言っちゃいましたね。
今回はちゃんと言います。
ちがうの!?
あんたバカぁ?
ってみんな言いますよ?
そういわれるのは覚悟の上です。
しかし“人間”とは、そのように
もともと確固とした根拠の上に存在しているわけではない
不明確な本質を
無根拠に信じ込んでいる存在であると言えます。
言い換えてください。
つまり「自分は人間である」というのは
「自分は男である」
「自分は会社員である」であったり
「世界は空気と水に満たされている」
「地球は丸い」なんかも含めた
物語
の上でしか自分や世界を考えることができないということです。
ちょっと難しいかもしれませんが、詳しくはこちら!
取り去ることができない
絶対的前提
としてあたりまえに持っているということですね。
まぁ、そういうことです。
人間についてはここら辺にして
今日はその“人間”を超越した「佛」についてです
「吸血鬼(超つよい人間)」になるために
人間をやめるわけではなく
その“物語”の上でしか
生きられない人間というあり方をやめた
そういう存在のことっていえますよね?
そうです。
まったく失ってしまうってことですよ。
それは普通の人にとって単純に
死
です。
しかし、その“死”というのも
“物語”の一部ですよ?
死んだことないのに
どうしてそれが死だとわかるんです?
…だとするとつまり
「佛」という言葉で表されているモノを
なんと説明しますか?
つまり
無我である!
ってことです。
無我無我無我無我無我無我!無我ァーーーーッ!
その人間が「人間である」という自明の前提である
“人間” は実のところ無我である
という明白な理解のもとに
それを体現する
それが「佛」だといえるでしょう。
結局外から見たら「人間」ですよ?
無我をいくら正しい形で理解・体現しても
「佛」の見た目は「人間」でしょう。
なぜなら見る側の「人間」にとって
「アレが人間である」という物語は
強烈な前提として存在するからです。
納得される事実である、と言っていいですかね?
自己満足と大きく違う点は
「佛」は自分が「ナニカ」になって満足しているわけではない
ということです。
つまり「佛」はもはや「佛」ですらないのです。
ただその時その場の「ナニカ」が存在する以前の
「アレ」
とでも言っておきますか。
ちょっとお坊さんっぽいですよ道宣さん!
“仏に逢うては仏を殺せ
父母に逢うては父母を殺せ”
って完全にアウトな発言しますしね。
これもこれまでの話をふまえて考えれば
わかりやすいかもしれない。
ホントに殺されちゃぁ困るけど。
もはやそれは「アレ」ではなくなってしまう訳ですからね。
今回の「佛」の話でこのサイトの名前
「仏教のアレ」も、少し意味深いものになったのではないでしょうか……。
かっこつけてるだけじゃないですよ!
まとめ
- 仏?ホトケ?殺っちまえ!
- 「アレ」って、便利な言葉^^
- 死すら超越した存在が「アレ」
- 道宣はこの後とりあえず第3部まで無駄無駄無駄ァされました。
ずばり!仏です!