仏ってなに?:死んだ人?


この記事について

仏さん、っていうと死んだ人のこと。

それは誤解です!文化的にはそれでいいんですが……。

かなり本質的な話まで話してますが、わかりやすい会話なので

仏教について知りたいどんな人にもおすすめです!

ジョジョを知らない人はすみません……。知らなくても大丈夫ですよ…。

ほとけ…死んじゃったの…?

 

道宣
今回ぜひお話しをしたい「アレ」は

ずばり!仏です!

遊心
ほとけ、ですか。

たしかに何を指して言っているのか

すごくあいまいな言葉です。

道宣
大抵日本だと

 

死人

 

のことですからね。ホトケっていうと。

遊心
「ホトケになる」とか、「おシャカになる」とか

お坊さんからしたら

 

「なりたいよっ!」

 

って感じですよね。

道宣
ですね(笑)

 

仏とは、われわれ坊主からしたら

あくまで悟りをひらいた目標的存在ですからね。

遊心
はい。

 

今回の「ホトケ」は、その文化的な誤解のことではありませんよね?

道宣
もちろんです。

 

今回の「ホトケ」は、仏教ほんらいの意味での「ホトケ」を

対象にお話をしたいです。

 

内容の都合上「佛」と旧字体で表記します。

遊心
おぉ、なんとなく話の流れがつかめました。

 

「人」を「弗(はらう)」と書いて「佛」ですね?

道宣
そうです。

 

人間としての苦しみの生存を “解脱” した

「佛」のことです。

遊心
はい。

 

わたしのよく言う

人間オワコン説

ですね

道宣
それは人それぞれですが…。

 

オワコンだと感じた人間は必然的に

「佛」を目指す修行に入る、と言っても良いかもしれません。

 

 

???「人間を超えるものにならねばな……」

遊心
よく仏教修行で“仏になる”っていうと

どうしても“人間が頑張って”

“スゴイ人間になる”

ことを話してる人多いですね。

道宣
そうですね(笑)

 

完全な誤解です。

遊心
これは根深いイメージですから

簡単に納得はしてもらえないと思いますよ?

道宣
しかたありません。

 

しかし、とりあえず「佛」とは

死人でもなく

もっというと人間でもない

ことをしっかり覚えておいてもらえれば。

遊心
「おれは人間をやめるぞ!ジョジョーーッ!!」

ってことですね?

道宣
ジョジョ?ごめん知らない。
遊心
なん…だと……!?

 

 

……まぁDIOは人間的欲望で吸血鬼になっているので

吸血鬼になったとはいえ “強い人間” と変わらず

人間の延長線上から出ていないので、

佛とは言えないわけですが。

道宣
(なにそれこわい…)

 

まぁ、よくわかりませんが

“人間の延長線上”っていうのは

わかりやすい言葉かもしれません。

 

人間とは・・・

遊心
人間の延長線上

言い換えると、人間として想定できる

あらゆる存在の在り方のことです。

 

こうなったらいいなぁ

 

とか

 

こうなったらこまるなぁ

 

ということが想定可能なありかたをすべて含めます。

 

つまり人間にとっては“生きていること”です。

道宣
はい。

 

生きていること

つまり“人生”における出来事すべてですね。

遊心
では、佛は・・・・・・
道宣
そう!

「佛」のにんべんが表す「人」

 

その“人生”!

 

それを拂拭する!

遊心
つまり・・・・・・
道宣
佛とは・・・・・っ!

 

人間存在を根本的に取り払った

われわれが人間として認識した上で

想定不可能なモノです!!!

遊心
はい。わかりました。

これめちゃめちゃわかりにくいです。

道宣
やっぱりですか?

 

合わせてくれてありがとう。

遊心
いいえ。

 

人間存在っていうと一般に人間の物質面

つまり肉体が思い浮かぶとおもいますが

その説明だと、佛になるってやっぱり死ぬことです。

道宣
それは人間のとらえ方が一面的すぎるのが問題です。

人間、自分とは何かということをしっかり考えると

肉体のどこをとっても、これが自分とは言えません

遊心
はい。

 

腕だけ切り取られても、わたしではないですからね。

 

これは体全体でもおなじです。

 

いいじゃないか にんげんだもの

道宣
では、その精神に“人間”があるとおもいますか?
遊心
精神だけで存在したことないからわかりません。

 

 

 

 

では私という存在のどこに“人間としての私”がいるんでしょう

道宣
…………。

 

 

 

 

 

そんなのは

 

いません

遊心
……。

 

言っちゃいましたね。

道宣
はい。

 

今回はちゃんと言います。

遊心
でも私は人間でしょ!?

ちがうの!?

あんたバカぁ?

 

ってみんな言いますよ?

道宣
(へんなしゃべり方だな・・・?)

そういわれるのは覚悟の上です。

 

しかし“人間”とは、そのように

もともと確固とした根拠の上に存在しているわけではない

不明確な本質を

無根拠に信じ込んでいる存在であると言えます。

遊心
むつかしい。

言い換えてください。

道宣
……。

 

つまり「自分は人間である」というのは

「自分は男である」

「自分は会社員である」であったり

「世界は空気と水に満たされている」

「地球は丸い」なんかも含めた

 

物語

 

の上でしか自分や世界を考えることができないということです。

ちょっと難しいかもしれませんが、詳しくはこちら!

遊心
世界と自分を含めた、すべての存在根拠を

 

取り去ることができない

 

絶対的前提

 

としてあたりまえに持っているということですね。

道宣
(それだってわかりにくいよ・・・)

 

まぁ、そういうことです。

 

人間についてはここら辺にして

今日はその“人間”を超越した「佛」についてです

遊心
つまりDIOのように

「吸血鬼(超つよい人間)」になるために

人間をやめるわけではなく

 

その“物語”の上でしか

生きられない人間というあり方をやめた

 

そういう存在のことっていえますよね?

道宣
DIO?については知らないけど

そうです。

遊心
でも、それじゃぁ“世界と自分”というすべての物語を

まったく失ってしまうってことですよ。

 

それは普通の人にとって単純に

 

 

です。

道宣
そうでしょうね。

 

しかし、その“死”というのも

 

“物語”の一部ですよ?

 

 

 

死んだことないのに

 

 

どうしてそれが死だとわかるんです?

遊心
(っ!むかつく~!)

 

…だとするとつまり

「佛」という言葉で表されているモノを

なんと説明しますか?

道宣
そのモノには明確な存在根拠がない。

つまり

 

無我である!

 

ってことです。

 

無我無我無我無我無我無我!無我ァーーーーッ!

遊心
佛は無我…まぁ理屈は通りますね。
道宣
詳しくは下記の記事を見てほしいですが、

その人間が「人間である」という自明の前提である

 

“人間” 実のところ無我である

 

という明白な理解のもとに

 

それを体現する

 

それが「佛」だといえるでしょう。

遊心
でもその体現する「佛」って

結局外から見たら「人間」ですよ?

道宣
そこが重要です。

 

無我をいくら正しい形で理解・体現しても

「佛」の見た目は「人間」でしょう。

 

なぜなら見る側の「人間」にとって

「アレが人間である」という物語

強烈な前提として存在するからです。

遊心
あくまで「佛」は自分自身のなかで

納得される事実である、と言っていいですかね?

道宣
そういうとまたややこしくて誤解が生まれそうですが

自己満足と大きく違う点は

 

「佛」は自分が「ナニカ」になって満足しているわけではない

 

ということです。

 

つまり「佛」はもはや「佛」ですらないのです。

 

ただその時その場の「ナニカ」が存在する以前の

 

「アレ」

 

とでも言っておきますか。

遊心
なんかかっこいいじゃないですか!

 

ちょっとお坊さんっぽいですよ道宣さん!

道宣
それは…ご縁ですね…^^
遊心
禅では

 

 

“仏に逢うては仏を殺せ

父母に逢うては父母を殺せ”

 

 

って完全にアウトな発言しますしね。

 

これもこれまでの話をふまえて考えれば

わかりやすいかもしれない。

 

ホントに殺されちゃぁ困るけど。

道宣
「ナニカ」と思ってしまっては

もはやそれは「アレ」ではなくなってしまう訳ですからね。

 

今回の「佛」の話でこのサイトの名前

「仏教のアレ」も、少し意味深いものになったのではないでしょうか……。

遊心
そうですね!

 

かっこつけてるだけじゃないですよ!

 

まとめ

  • 仏?ホトケ?殺っちまえ!
  • 「アレ」って、便利な言葉^^
  • 死すら超越した存在が「アレ」
  • 道宣はこの後とりあえず第3部まで無駄無駄無駄ァされました。



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