坐禅ってなに?②:坐る動機―命をかける価値―


坐禅をしようと思う前に、

ちょっとまってください。

実はしなくていいかもしれません。

どのような人が坐禅をするべきか。

坐禅ってなに?第二回目です。

前回はこちら

“何”が欲しいのか

道宣
今回は、坐禅をするべき人、

「こういう人なら坐禅してみてもいいんじゃないかな?」

というケースについての話をします。

 
遊心
前回話した通り、

お金や恋人で解決できる問題であれば、

坐禅では解決できませんし、

より効率的な手段が他にたくさんあります。

 
道宣
はい。

 

 

ではどのような場合に坐禅をするべきかというと、

一番わかりやすい例が、

「社会的価値の中に何も魅力を感じない」

という方の場合です。

 
遊心
わかりにくいですね(笑)

 

たしかに、 “わかりやすい例” と言っても、

「○○を求めている人」という例は

○○が言葉にできないので言えません。

 
道宣
はい。

 

伝統的には「本来の自己」とか、

「さとり」とか「苦の滅尽」とか、

様々な形で言うことはできます。

 

 

しかし、これは不思議なくらいに

指摘されることが少ない問題点ですが、

「求めるべきモノや状態」それ自体が

言葉にできない他人の経験なので、

いくら正確に表現されたとしても

教えられる側にとっては

“知らないモノ” であるはずです。

 
遊心
そうですね。

 

 

いくらうまい言い回しをしても、

正確に伝わるかどうかがわからないので、

上記の表現を使った場合、

「○○(知らないもの)を求めてる人にオススメ!」

と言っていることと同じになってしまいます。

 

 

“さとり” や “本当の自分” を求めてもらっても、

修行や坐禅をしてわかるのは、

たぶん最初に思っていたそれと、全然違うものです。

出家=もう「人生」から出る!

 

道宣
はい。

そのため、

○○ではないモノを求める人」

という同じく伝統的に使われている

言い方をしたほうが適切だと思いますね。

 
遊心
私もそのほうが誤解が少ないと思います。

 

出離を欣求しゅつりをごんぐとか言いますが、

簡単に言うと、

「社会的価値基準から離れたい」

ということなので、

「社会的価値の中に魅力を感じない人」

と言い換えると伝わりやすいと思います。

 
道宣
具体的に言うと、

社会的価値の充足で解決されることの無い、

 

「生死」

「自分という存在」

などに関わる問題に

本気で取り組みたい人です。

 
遊心
道元禅師の言葉で言えば、

「生死を明むる」や

「自己をならう」という動機がある人ですね。

※一般的に「 “さとり” を求める心」や、修行の動機となるものを 「菩提心」ぼだいしんといいます。

しかし上で話したように、「 “さとり” を求める心」がよくわからないため、

道元禅師は「無常を観ずる心」を「菩提心」としています。

【『 学道用心集がくどうようじんしゅう 菩提心を発すべきこと』超意訳】

自分を含めた世界が移ろいゆくことをしっかり考えたら、社会的価値を追い求めようとなど思わないはず。それを 発心ほっしん(菩提心を起こす)と呼ぶのだ。

 

いのちをかける

 

道宣
ここで重要なのが “本気” という部分です。

語弊がある可能性が高いので

あまり言いたくはないですが…

 

あくまで最終的には、

 

という前置きの上で言うと、

 

死ぬ気(マジ)の修行

 

をする気があるかどうかが重要です。

 
遊心
そうですね(笑)

 

師匠に口を酸っぱくして言われたことです。

 

 

もちろん、「死ぬ気」でやることと、

「死のう」とすることはまったく別の行為です。

 

「命をかける気」と言ったほうがいいかもしれません。

懸命と言ってもいいですが、

懸命だとちょっと違うかも…

あくまで、「生」から離れる意志という意味での「命がけ(マジ)」です。

 
道宣
はい。

 

「生」というのが今までの話で言うと、

「社会的価値」の追求の範囲です。

 

「死」というのは、

あくまでそこから離れること、

生まれたときから、

当たり前のようにおしつけられる、

「生」の内容に対してうんざりした者が、

そこから「出離することを求める」という意味で、

「死ぬ気(一所懸命)」になるということですね。

 
遊心
はい。

 

 

普通に考える通りの生物学的「死」ではありません。

 

そういえば、特に禅仏教は元々、

この「命がけ」を確認してから

修行することがあたりまえのはずなのですが、

 

最近だとそれでは “売れない” ので

あまり重要視はされません……。

 
道宣
入門の時に雪降る中何時間も立たされたり、

派手な例だと腕切り落としたりしますからね。

 

「それほどの動機がなければやってはならない」

というわけではありませんが、

少なくともその気にならなければ、

しっかりと “わかる” のは難しいと思います。

※ちなみに伝統的動機といえば「 “仏” になりたい」です。

 

遊心
読んでいる人はドン引きかもしれませんが、

ピンと来る人も少なからずいるでしょうから

包み隠さずお話ししました^^

 

 

ツイッターでもなんとなく言ってはいましたが…(笑)

 

 

道宣
伝わる人に伝わってくれたら良いです。

 

では、次回からは、ようやくですが、

「どう坐るべきなのか」

「坐禅」の内容についてです!

あ、今のうちに言っておきますが…

坐り方の身体技法については、

ほとんど書きません…^^

 

まとめ

  • 修行して「何が手に入るのか」はわからないと思うほうがいい。
  • 積極的な動機さがしでなく消極的動機さがしが安全
  • マトリックスで言うと赤いピルを飲む気がないと坐禅しても無駄

 

次回につづく



2件のコメント

あー、何となくわかる!
自分にとって一番大事なものを手放さないと
得られないと思う。辛い!

嶋田修様

個人的には「自分にとっての一番大事なもの」があれば、無理に手放して修行を志す必要はないと思います。
「大事なものを」手放してまで、やるべき理由があるかどうかは重要ですね。

遊心

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