坐禅をしようと思う前に、 ちょっとまってください。 実はしなくていいかもしれません。 どのような人が坐禅をするべきか。 坐禅ってなに?第二回目です。 |
前回はこちら
“何”が欲しいのか
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「こういう人なら坐禅してみてもいいんじゃないかな?」
というケースについての話をします。
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お金や恋人で解決できる問題であれば、
坐禅では解決できませんし、
より効率的な手段が他にたくさんあります。
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ではどのような場合に坐禅をするべきかというと、
一番わかりやすい例が、
「社会的価値の中に何も魅力を感じない」
という方の場合です。
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たしかに、 “わかりやすい例” と言っても、
「○○を求めている人」という例は
○○が言葉にできないので言えません。
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伝統的には「本来の自己」とか、
「さとり」とか「苦の滅尽」とか、
様々な形で言うことはできます。
しかし、これは不思議なくらいに
指摘されることが少ない問題点ですが、
「求めるべきモノや状態」それ自体が
言葉にできない他人の経験なので、
いくら正確に表現されたとしても
教えられる側にとっては
“知らないモノ” であるはずです。
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いくらうまい言い回しをしても、
正確に伝わるかどうかがわからないので、
上記の表現を使った場合、
「○○(知らないもの)を求めてる人にオススメ!」
と言っていることと同じになってしまいます。
“さとり” や “本当の自分” を求めてもらっても、
修行や坐禅をしてわかるのは、
たぶん最初に思っていたそれと、全然違うものです。
出家=もう「人生」から出る!
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そのため、
「○○ではないモノを求める人」
という同じく伝統的に使われている
言い方をしたほうが適切だと思いますね。
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「 出離を欣求」とか言いますが、
簡単に言うと、
「社会的価値基準から離れたい」
ということなので、
「社会的価値の中に魅力を感じない人」
と言い換えると伝わりやすいと思います。
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社会的価値の充足で解決されることの無い、
「生死」や
「自分という存在」
などに関わる問題に
本気で取り組みたい人です。
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「生死を明むる」や
「自己をならう」という動機がある人ですね。
※一般的に「 “さとり” を求める心」や、修行の動機となるものを 「菩提心」といいます。
しかし上で話したように、「 “さとり” を求める心」がよくわからないため、
道元禅師は「無常を観ずる心」を「菩提心」としています。
【『 学道用心集 菩提心を発すべきこと』超意訳】
自分を含めた世界が移ろいゆくことをしっかり考えたら、社会的価値を追い求めようとなど思わないはず。それを 発心(菩提心を起こす)と呼ぶのだ。
いのちをかける
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語弊がある可能性が高いので
あまり言いたくはないですが…
あくまで最終的には、
という前置きの上で言うと、
死ぬ気(マジ)の修行
をする気があるかどうかが重要です。
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師匠に口を酸っぱくして言われたことです。
もちろん、「死ぬ気」でやることと、
「死のう」とすることはまったく別の行為です。
「命をかける気」と言ったほうがいいかもしれません。
一所懸命と言ってもいいですが、
一生懸命だとちょっと違うかも…
あくまで、「生」から離れる意志という意味での「命がけ(マジ)」です。
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「生」というのが今までの話で言うと、
「社会的価値」の追求の範囲です。
「死」というのは、
あくまでそこから離れること、
生まれたときから、
当たり前のようにおしつけられる、
「生」の内容に対してうんざりした者が、
そこから「出離することを求める」という意味で、
「死ぬ気(一所懸命)」になるということですね。
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普通に考える通りの生物学的「死」ではありません。
そういえば、特に禅仏教は元々、
この「命がけ」を確認してから
修行することがあたりまえのはずなのですが、
最近だとそれでは “売れない” ので
あまり重要視はされません……。
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派手な例だと腕切り落としたりしますからね。
「それほどの動機がなければやってはならない」
というわけではありませんが、
少なくともその気にならなければ、
しっかりと “わかる” のは難しいと思います。
※ちなみに伝統的動機といえば「 “仏” になりたい」です。
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ピンと来る人も少なからずいるでしょうから
包み隠さずお話ししました^^
ツイッターでもなんとなく言ってはいましたが…(笑)
いつも言っていますが、仏教は「幸せな家庭」や「理想的な仕事」を手に入れるために必ずしも役立つとは言えません
「所与の価値観の延長線上から外れるモノ」という前提さえあれば、それほど難解ではないのですが、仏教を流行らせる人は「既存の価値観の追求」をウリにするので大変やりづらいです…— 仏教のアレ編集部 (@honnebose) 2018年10月14日
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では、次回からは、ようやくですが、
「どう坐るべきなのか」
「坐禅」の内容についてです!
あ、今のうちに言っておきますが…
坐り方の身体技法については、
ほとんど書きません…^^
まとめ
- 修行して「何が手に入るのか」はわからないと思うほうがいい。
- 積極的な動機さがしでなく消極的動機さがしが安全
- マトリックスで言うと赤いピルを飲む気がないと坐禅しても無駄
次回につづく
あー、何となくわかる!
自分にとって一番大事なものを手放さないと
得られないと思う。辛い!
嶋田修様
個人的には「自分にとっての一番大事なもの」があれば、無理に手放して修行を志す必要はないと思います。
「大事なものを」手放してまで、やるべき理由があるかどうかは重要ですね。
遊心