坐禅について 実際に何をやるのか、何のためなのか 現代における視点から真面目にお話します。 初回は瞑想と坐禅の違いから。 |
涅槃と坐禅の違い
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坐禅と聞いても、
マインドフルネスなど、いわゆる瞑想とどう違うのか
はっきり区別して話されることはなかなかありませんからね。
実際に何なのかわかっている人は少ないです。
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マインドフルネスも含めて、
他の仏教由来の瞑想も同じことですが、
本気で取り組み、時間をかけるのであれば
徐々に坐禅との区別は曖昧になってゆきますけれど。
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いずれもいわゆる “さとり” の理解と体現を目指すものでしょうからね。
といっても、坐禅の詳しい説明をする前に、
「坐禅と瞑想の違い」と、
「どんな人が坐禅をやるべきなのか」
を説明してみましょう。
ここで扱う瞑想・マインドフルネスとは
「人生をうまく生きたい」
「自分を成長させたい」
といった”売れる仏教”で用いられるメソッドのことを指しています。
*本来の意味の瞑想やマインドフルネスを否定しているわけではありません。
↓詳しくはこちらの記事もどうぞ↓
坐禅の入り口
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対象者、つまり “だれがやるべきか” だと思います。
とくに、最初に「やってみよう」と思った時の
“入り口” の大きさに大変な違いがあります。
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たしかに坐禅はハードル設定が高めですね…。
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基本的に、坐禅をやるのであれば、
「出家」という立場が大変重要になってきます。
そのため、基本的にお坊さん向け、
すくなくとも、それと同じくらいの動機と熱意が求められます……(笑)
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もちろん、古くから “ 居士” と呼ばれる
在家の坐禅修行者はおられますから、
実際にお坊さんになる必要がある、というわけではありません。
しかし、坐禅の成り立ちと仕組みを考えてみると、
坐禅というものが出家者を対象に
成立、発展してきたものであることは間違いありません。
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遊心さんが言った通り、
お坊さんにならなきゃいけない、
ということはありません。
しかし少なくとも、本人の中では
お坊さんと変わらないくらいの内容、
「出家」の動機や自覚を
はっきりと持った上でなければ、
本来の意味で坐禅を坐るのは
難しくなると思います。
「出家」について詳しくはこちら
坐禅の前提―無所得―
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「得ようと思うものがあってはならない」
という大前提が坐禅と瞑想の大きな違いだと思います。
「何かを手に入れるために、
修行(坐禅)を手段にしてはならない」
ということがよく言われます。
なにも得ようとしない、
「無所得」という態度と実践が
実際に大変重要です。
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ただ、単純に考えて、
本当に “なにも求めていない” 人であれば、
何をする動機も持たないはずです。
ここの話は僕も最初のころによく思っていましたが、
正直言って、何を言いたいのかわからないと思うので、
便宜的にここでは言い換えましょう。
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坐禅としては成立しませんが、
初めからそれをやれと言うのは
確かにちょっと無理がありますよね…。
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道元禅師の教えを普通に適用すると、
どうしてもそうなっちゃうんですけどね。
ここでは、とりあえずのところ、
「社会的価値を求めない」状態が必要、
ということにしましょう。
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社会的価値、というと、
お金や恋人、地位や名誉など、
普通に想像できるほとんどすべての価値です。
逆に言えば、これらは坐禅してもたぶん手に入りません。
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そういった物が必要だと本気で思う方には、
坐禅以外に、
より効率的で優れた手段が
たくさんあることは間違いありません。
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坐禅と瞑想との違いの話に戻ると、
瞑想、とくにマインドフルネスなどは
そういった「価値」を求める方々でも有益な場合があります。
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社会的価値を求めて瞑想をすることに
否定的ではありません。
厳密に言えば、
テーラワーダの瞑想などは坐禅と同じで
社会的価値を求めることに肯定的ではないはずです。
そうはいっても、「瞑想」と呼ばれるものは
総じて入り口が広い傾向があるのが良い点です。
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という話を次回詳しくお話ししましょう!
まとめ
- 入り口の広い瞑想:入り口の狭い坐禅
次回に続く
簡単な説明をしたいと思います。