第四回目からは本格的に 禅の歴史をふまえた坐禅のアプローチを扱います。 坐禅を始める前に知っていれば すごく役にたつとおもいます。 |
前回はこちら
見た目は同じ、やってることは色々
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見た目では判別することが出来ないので、
みんな初めは「かっこいい坐禅」をめざします。
正直そんなことはどうでもいいので、
何を “目指して” 坐禅するべきかを
禅の歴史を踏まえて話しましょう。
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やっていることや目指していることは
実質かわらないことが多いですが、
大きく分けて三つの語り口があります。
A:「がんばるのをやめた “ありのまま” の自分が “さとり” です」
B:「がんばって “さとり” を得ないと “ありのまま” はわかりません」
C:「“がんばっている” ことがそのまま “さとり” です」
このA・B・Cに分けてあつかいましょう。
現代でも、たいていの主張が
実はこの三つの内のどれかに当てはまります。
詳しい説明と本格的な勉強がしたい方はこちらの本がおすすめです。
今、ここ、この自分
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即身是仏(そくしんぜぶつ)という言葉で有名ですが、
「この身このままが仏」ってことです。
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普段の日常に現れる
人間の行いや状態がそのまま仏、という主張です。
馬祖 道一という
中国、唐時代の禅僧がおりますが、
かれはこの主張によって
たいへん多くの傑出した禅僧を育てました。
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ここで扱う主張ももちろんですが、
なにより弟子に対しての教育がすばらしい。
人によって説明の言葉をかえたり、
対応を様々にして巧みに教育をほどこしたことが
あれほどの数の弟子を立派に輩出した理由だと思います。
よく言っていることですが、
優れた指導者は
弟子を含めた他人を
とてもよく理解しています。
特に馬祖は自分と弟子との相性を見極めて
他の師匠を紹介できるほどです。
馬祖のエピソードはこちら
「ありのまま?じゃぁなんもしなくていいや^q^」
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疑いがありませんが、
今遊心さんが言った中に
馬祖の主張であるAの問題点がしっかりあらわれています。
Aの主張は的確ですし、禅の神髄であることは間違いありません。
しかし、馬祖の行った教育自体は
その説明の仕方や言葉に頼り切ったものではない。
ということをしっかり覚えておかないと……
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「ありのままでいいんだよ」
だけで終わる下らない主張になります。
「努力はしないけどそれでも悟ってるのと同じ!」
という意味不明なこと言い出すやつがでてくるんですよね…
しっかり説明しきる気がなければ
安易に使える主張ではありません。
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趣旨をまとめると、
“さとり” というものが
自分の努力で作り出された、
なにか特別な状態ではなく、
むしろ元々の “さとり” の上に
余計な “はからい” や “考え” を加えるから
いつまでたっても的外れになる。
これは的確な “さとり” の説明ですが、
では実際に坐禅をして
「“ありのまま” の “さとり” の状態を実現しよう!」
と思っても、それ自体が “余計なはからい” なので、
このAの主張だけを聞いたり読んだりしても、
実際に実行することはほとんど不可能です。
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人になにもわかってもらえない、
というのが最大の問題ですね。
だからこそ馬祖のような
教育力がモノを言うのですが、
この人間的能力を無視して
Aの主張をすると、
後に批判を受ける通り、「自然主義」として
努力をしない「ありのまま」に安住する修行不要論になります。
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その人の下で実際どれだけの弟子が育っているか、
ということをしっかり問われるべきなのは確かです。
“さとり” と人間的能力は別問題
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坐禅と関係がないようでいて、
実はすごく重要なので、すこし扱いますが…
歴史上の偉人の主張だけ持ってきて
彼らの人間的能力を無視して流用することは
残念ながら仏教指導者によくあることです。
実際にそうなってしまうことは
お釈迦さんの時代からあまり変わらないのではないかと思いますね。
ですから、せめて、
「人間的能力があったからこそ
これまでの指導者達の主張は
弟子を育てることができたのだ」
ということを知っておくのが大変重要です。
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ハイパー有能教師ですからね。
人の考えていることや理解度を
明確に把握しながら、
適切な比喩と表現によって
理想的な説明をしています。(弟子の理解度を見ると)
その説明だけを持ってきても、
あなたにはムリでしょ……という場合は多いですね。
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これはお釈迦さんや馬祖道一だけでなく、
龍樹や道元など他すべての偉人にあてはまります。
歴史上では、
「人間的能力に優れていたが、修行者としての主張はイマイチ魅力に欠ける」
という方は多いですし、逆に、
「主張はすぐれていたが人間的能力が(部分的に)足りない」
というケースも多くあります。
言いにくいことですが…
特に生きている人間の場合は
後者のケースが多いです。
すぐれた主張≠すぐれた指導力
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過去の偉人は
実績を残す能力があったから
歴史に残っている訳なので。
過去の指導者の場合、
主張が優れていただけでは誰も注目しないので、
むしろ組織運営の能力や
他人にものを伝えるコミュニケーション能力が
大変重要でした。
そうでなければ
組織を大きくもできませんし
弟子も育たないので、
歴史に埋もれているんでしょう。
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本が売れたり、SNSのフォロワーが増えたりして
しっかりと人目につくことが出来る、
ということはお坊さんに限らず
指導者を見る時にかなり重要だとおもいます。
すぐれた主張をする人に
指導力(特にコミュニケーション能力)を求めるのは
必ずしも正しくないということです。
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禅の基本的主張として
とりあえずおさえてもらえばいいと思います。
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Aの主張をふまえて話すと、
がむしゃらにもがいて、
泥まみれで努力するのは、
結局 “うまく” 生きたいからに過ぎないことが多いので、
それをきっぱりやめてしまう事で
むしろ自己本来のありかたに気づく、って言ってます。
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「すばらしい!そのとおりだ!」
とすぐに思うひとはちょっと知的に危ないので、
次も読んでください。
次回はこの主張ついての問題意識から
派生したBを扱います。
Aの主張に「…?」と疑問に思った方は
是非読んでください。
まとめ
- この身このまま、ありのまま、なんもしなけりゃさとりと同じ。
- 経験や知識が無くても言えるので人気があってよく聞くのがA
- Aの主張は間違ってはいないが、“わからせてくれるかどうか” は別問題。
次回へ続く
だまって坐禅をしたら、
皆同じ見た目にはなるのですが、
実のところ、いろいろなことしている人がいます。
その坐禅をする時の志向についてのお話です。