禅修行ってなに?④:これからの禅修行


 

この記事について

気になる禅修行の“ホント”を話したまとめです。

師匠が見つからないのに、一生をかけろ!

そんなの誰もやるわけないでしょ。

そんな現状は師匠達がみんなを救う為だった…?

苦しくも導き出した唯一の解決策とは!

なんか、日本文化全てに共通する構造だとおもいます……。

 

道宣
今回が一応のまとめということにしたいと思います。

コチラから読まれる方は以前の記事を読んでからどうぞ。

 

 

禅修行?一生無駄になるじゃん^q^

遊心
前回までで禅仏教オワコン説が

ほとんど証明されたのですが?

何をあがくんですか?

 
道宣
たしかに、

「正しいかどうかわからない師匠について、どれだけかかるかわからないけど時間をかけなさい。」と言われたら、

普通の人であれば、もちろん他の選択肢を考えます。

 
遊心
あたりまえですね。

 

多かれ少なかれ“自分の人生に納得できない”

ということで修行を志すわけですから、

探せばすぐ他の魅力的な選択肢が見つかるはずです。

たとえば新興諸宗教のアピールポイントは

皆ここに焦点を当てているとおもいます。

 

 

伝統宗教である、禅修行が提供できない

“インスタントな”解決策です。

 
道宣
そうです。

 

そのインスタントな利益が魅力的であるという状況が、

現在の禅修行の問題点を、しっかり表していると思います。

 

「(どうにか一生をかけてもらわなきゃ……!)」

 

遊心
そうですね。

 

やはり…

時間ですか。

 
道宣
はい

 

無限にも等しい時間を要求せざるを得ない

少なくとも修行者本人に

その時間を費やす気になってもらわねば

本来的な修行ができない。

 

という今までの禅修行の前提問われるべきです。

 
遊心
……苦しいですね。

 

禅が時間を要求するのに理由があることは

われわれが一番よく知っていますよね?

 

それを否定することはできないはずです。

 
道宣
もちろんです。

 

「一生、さらにいえば永遠の時をおくるとしても

その時その場の在り方で問題ない。」

 

その態度での修行を見出すためには、

 

「1年やったら効果出るかも」

 

などと考えていては、それこそ一生わからないでしょう。

 
遊心
その通りです。

 

だからこそ、お金でモノを買うかのような考えで

修行することのないように

命を捨てて修行しろと言われるんです。

 

「そんなの誰もやらねーよ」

 

と言われようが、

そうでなければ人は救われないことを

誰よりもよく知っているからこそ禅の師匠たちは

そう言ってきたのではないですか。

 

「絶対全員をわたしは救う!」

 

道宣
……しっています。

 

その言葉は“生きとし生けるものすべてを救う”

という大乗仏教のスローガンそのものですから。

 

 

その言葉をしっかり受け止めて実行してもらえば、

 

“必ず全員が救われる”

 

という確信をもって、歴代の老師方はそう言ってきたはずです。

だからこそ皆この言葉を言わざるを得ない。

 

「俺を信じて一生をかけろ。絶対にお前を見捨てない」

 
遊心
では、お坊さんとしてどうしても

それを言わざるを得ない理由があるのであれば

やはり禅仏教はオワコンじゃないですか……。

 

現代においてはその“全員を救う”という誓いのおかげで

 

むしろ誰もそれをやろうと思わない。

 

 

もはや誰も救われない。

 

 

そのような状況が見えてしまっては

どうしようも無いのでは……?

 

少なくとも今までの禅修行の形そのままでは

どうやってもオワコン化は逃れられないでしょう。

 
道宣
今までの形ではそうです。

 

しかし考えてもみてください。

 

中国禅仏教史において、果たして現代のように

師匠は弟子に永遠の時を要求したでしょうか。

 

「一人で全員とか面倒見れるわけないじゃろ」

 

遊心
……。

いいえ。

 

“絶対に一つ所で時間をかけなければ修行にならない”を

あたりまえにしたのは日本に来てからでしょう。

とくにその一つの修行方法、

念仏、坐禅などの一つの行を専門にして、

一人の師匠の下で十年単位の時を過ごすようになったのは

日本に禅が伝わった鎌倉時代からだと思います。

 
道宣
そのとおりです。

 

それ以前、中国禅の歴史では

一つの巨大な寺に千人以上の修行僧があつまり

師匠につき、他の修行僧に学びながら修行していました。

 

だがしかし、ここが現代との最大の違いです。

中国禅の師匠たちは

自分の弟子に対して、いともたやすくこう言います

 

「おまえ、わしのとこ、

 

相性悪いから他行けば?」

 
遊心
……たしかに…!(笑)

 

「おまえ俺のところよりあいつのとこ行けば?

 

というのは現代の日本では、なかなか言えません。

 

少なくとも言えるような人には会ったことないですね。

 

なぜなら、それを言う為には師匠同士

横のつながりと理解が必要ですから。

現代では、とてもじゃないですが

 

“仲が良い老師達”

 

の想像はしにくいです。

 

批判しあってるのはよく見るけど……。

 
道宣
それです!

現代で既に見えた限界を

次世代が改善すべきと言うのであれば、

われわれがなす改善点は

禅修行における

指導者の横のつながりであるべきです。

 
遊心
ほほぉ~。

目の付け所……

ニッチですねぇ~

 
道宣
遊心さんも言った通り、これは苦しい戦いですからね。

 

 

しかしながら、これまでを踏まえて考えてください。

時間を要求せざるを得ないとはいえ、

修行者の自分との相性をしっかり理解して

他の師匠を紹介できるような指導者層が

少なくとも複数人連帯すれば、

 

「三十年一つの場所で坐りなさい」

 

とは、なかなか言わなくなるでしょうし、

「命を懸けなければ修行してはならない!」と

始める前から感じる人も減るはずです。

 

そうなれば、もう少し禅修行の方法としての存在価値も

今よりは、まだ高くなるのではないのでしょうか。

 

「わたし一人じゃできなかった……」

 

遊心
【一人の師匠が責任をもって弟子を完璧に育て上げる】

 

という今までの形を、過去の形に学び指導者層の充実をはかることで、

【複数人の指導者層が連帯して弟子の育成を考えることのできる】

柔軟な指導方法を目指すということですね。

 

 

弟子を育てる過程で、

より良い選択肢を師匠が気兼ねなく提案でき、

また弟子もそれを選べるような形で行われるべきだと。

 
道宣
それがまさに、これからの世代にとって

当然の方法であるはずです。

 

師匠はグーグルで検索しても簡単には見つかりませんが、

実際にはグーグル検索で探す人ばかりだと思います。

 

 

様々な比較対象をもって、彼らの相互関係が明確であれば、

 

選択肢の一つとして信頼して師事することができるとおもいます。

 
遊心
いままでは

「他の選択肢が見えてはだめだ」

とか

「一つに決められないなら修行はできない」

とか言う言葉が広く言われていました。

 

そしてそう言われるべき理由は確かにあります

前述のとおり現代においては

 

信頼できる師匠なんて

 

選択肢の一つとしてさえ

 

見つからない。

 

というケースが多いわけですからね……。

 

言いにくいことですが……。

 
道宣
そうですね。

 

“いつでも他を選ぶことのできる選択”と

“一生をかける選択”は矛盾しているようですが、

それは本人の取り組み方にゆだねることができるはずです。

 

それは決して人に押し付けられるものではなく、

自身の意志と思いによるものですから…。

 

まさに背に腹は代えられぬ局面であることは

若い世代の見方を、より知っているわれわれが

誰よりも声を大にして言ってゆくべきだと思います。

 
遊心
はい。

 

ではわれわれのこれからの修行も、

このような禅修行のあつかわれ方に

かかっているわけですね。

 
道宣
そうです。

 

できる限りのことをしていきましょう。

 

まとめ

  • 人手不足過ぎて指導者層育たない。
  • 日本の実力派老師は一匹狼型が多すぎる。
  • 大乗仏教の立派な老師は本当に『まどか☆マギカ』のまどか。
     



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