禅修行ってなに?①:禅修行ガールズトーク説


この記事について

禅僧が実体験をもとに修行の本質を語る超ホンネ記事!

難しい話なので分かりやすい例えを使おうとしたら、こうなりました。

ふざけすぎてごめんなさい。内容はしっかり考えました。

禅問答の意味を問うよりも、その構造に着目したら、

より深い意味で禅修行が理解できるかもしれません。

 

※もちろん禅問答の内容は奥深く、学ぶ価値のあるものです!

興味のある方に一番のおすすめは、コチラの書籍です。

遂に口を開く禅僧

 

道宣
ついにわれわれの修行について詳しく語るときが来ましたか。
 
遊心
はい。

 

以前「修行」については一度話しました

今回からはわれわれ禅僧の修行について

一度はっきり話をしようと思います。

 

道宣
では他の宗派の修行についてではなく

特に曹洞宗、道元禅師門下の修行について

ということですね。

 
遊心
そうです。

 

「禅」と言ったときに関係のある宗派は

ほとんどの場合その曹洞宗か、

臨済宗、黄檗宗のいずれかに限られます。

 

 

とくに海外で聞く「ZEN」は道元禅師の著作が有名なこともあって

曹洞宗が多いですね。

 
道宣
坐禅というのを主に行うのはその二つの宗派

いわゆる禅宗ですね。

 
遊心
はい。

 

 

禅修行というと、実際に何をやるか

あまり具体的なイメージはわかないでしょうし

かなり先入観が強い場合があるので

なるべくその先入観を捨ててもらうべきなのですが…。

 
道宣
むずかしいですよね。

 

坐禅して棒でたたかれて

わけわからん問答やってぶん殴られる

みたいなイメージがあります。

 
遊心
まぁ間違ってはいないのですが、大事なことは

それって何のためにやってるの?

ってことです。

 
道宣
そうですね。

 

 

見た目だけではとても内容は分かりません。

 

 

 

ガールズトーク!?

 

遊心
そこで、先入観をとりはらってもらうついでに

的確なたとえとして、誤解を恐れずこれを言います。

 

 

 

 

名付けて

 

禅修行ガールズトーク説!

 
道宣
(笑)

どういうことですか?

 
遊心
はい。

 

 

まず禅修行の特徴の大きな一つ

悟りに通じた師匠が志を持つ弟子を育てるという

師弟関係があります。

 
道宣
大事なことですね。

 

それ抜きには禅修行は成り立ちません。

 
遊心
はい。そのとおりです。

 

禅宗の中では一応

お釈迦さんが悟りをひらいて、それを伝えたのが

弟子のひとり摩訶迦葉(まかかしょう)尊者であるとされます。

 
道宣
“拈華微笑(ねんげみしょう)”というエピソードで有名ですね。
 
遊心
はい。

お釈迦さんがあるとき弟子を集めて説法の場を開いた。

弟子が大勢集まる中、お釈迦さんはだまって花をつまみあげ、

何も言わずにまばたきした。

それを見た弟子の中でただ摩訶迦葉だけがわずかにほほ笑んだ。

というエピソードです。

 
道宣
わけわかんないよね。
 
遊心
間違いないです。わけわかりません。

 

しかしこのエピソードで重要なことは

その“わからない内容” ではなく

この後お釈迦さんが「摩訶迦葉に悟りを伝えた」

としたところです。

 
道宣
つまり、どういうことですか?
 
遊心
わけがわからないこの出来事において

唯一示されている重要なことは

花をつまみ上げてまばたきする

 

ことではなく

 

 

それを見てにっこり笑う

 

ことでもない。

 

周りから見たら意味不明だが

師匠と弟子は明らかに

完璧な意思疎通をした

ということです。

 
道宣
ほほう。

なにも内容がわからないのにそこが大事だと言いきるんですか?

 
遊心
そうです。

 

すくなくとも二人の行為に関して明確な意味づけは無意味です。

いろいろ勝手に意味づけることは可能ですが

お釈迦さんの伝えた内容が何なのかを考えることで

むしろこの逸話の意味を分かりにくくするのは間違いありません。

 
道宣
それはそうでしょうね。

 

だって、まるっきり意味わからないですから。

 

それにこれ、宗門で大事にされている逸話とはいえ

ほぼ間違いなく史実ではないです。

 
遊心
はい。

 

 

その実際に起こった出来事なのか創作なのか

ということもむしろ重要点ではないとしたほうがよいでしょう。

 

人間性を疑われる禅僧

 

道宣
でもこれって、ほかの禅僧のエピソード全般に言える現象だよね?

 

いきなりぶん殴ったり、棒でひっぱたいたり

鼻つまみあげたり、指切り落としたり

ひどいときには

 

ネコぶった切ったりするからね。

 

かわいそう。

 
遊心
有名なエピソードにはよくそういった

ショッキングな出来事がつづられています。

 

 

重要なのはそれらすべてが

 

まったく

 

 

意 味 不 明

 

だということなのです。

 
道宣
だんだん言いたいことがわかってきました・・・

外から見たら意味不明の師匠と弟子のやりとりで

ある時なぜかお互い満足げに

 

“悟りが伝わった”

と言いだす現象・・・・・・

 
遊心
そうです!

つまり禅修行の師匠と弟子の関係において

常に行われている修行とは

 

ガ ー ル ズ ト ー ク

 

だったのです。主に女子高生のような。

 
道宣
(爆笑

 

 

いや、それ的を射てるかもしれないけど、

聞いただけだとただのアホの人みたいに聞こえるよ?

 
遊心
かまいません。

 

間違いありませんから。

 

マジ猫かわいそぉ~もぉクツ頭乗せてかえる~

 

道宣
たしかに、部外者からは全く何のことかわからないけれど、

当事者たちには一番効率の良いコミュケーションができる、

恐怖の現象

女子高生のガールズトークのような現象が起こっている、

と考えてみると納得できますね(笑)

 
遊心
考えてみてください。

 

この逸話を聞いてどう感じますか?

ある時弟子たちが猫一匹を引っ張り合いながら口喧嘩をしていました。

通りかかった師匠が怒鳴りつけました

「なんだコレは!!!言わなきゃ斬るぞ!!!」

弟子は誰も答えられなかった。

遂に師匠は

 

猫をまっぷたつにぶった切った。

 

その後、師匠は弟子の一人にたずねた

「お前ならどうこたえる?」

 

弟子はわらじを頭にのせて歩いて行ってしまった。

 

師匠が一言、

「あいつがいれば猫を斬らずに済んだのに…」

 

 

 

 

 

この

(なにそれこわい・・・・)

ってかんじ

とってもガールズトークと似てません?

 
道宣
言われてみればそうかもしれない。

「ワンチャンエンカあるww」

(もしかしたら会うかもしれない)

 

「そマ?マジ卍www」

(それ本当?すごくやばい。)

 

「テンアゲ↑ぶっちはイミフ!」

(興奮する。連絡しないのは理解できない。)

 

と聞いた時と、おなじ不安をおぼえるかもしれない。

 
遊心
そのとおりです。

いずれとも部外者からしたら

 

(え?なに?こわっ・・・)

 

としか思えない現象なのです。

 
道宣
それを聞くとかなり禅修行のイメージ変わりますね。
 
遊心
そうです。

 

 

ぜひ固定観念を崩壊させてほしいです。

 

 

禅修行において時には崇高で

時には深淵で

また時には高尚なイメージを持って見られる、

いわゆる“禅問答”は、

じつは現象としてはマックの女子高生が行う

ガールズトークとまったく同じものだったのです。

 

一人じゃできません。

 

道宣
でも伝えている内容はもちろん

仏教の重要な真理なんですよね?

 
遊心
それはそうでしょう。

 

しかし、その内容を一人で推し量ることが果たして有効か、

それは女子高生の会話をおじさんが頑張って解読するのと

同じくらい馬鹿らしいことだと思いませんか?

 
道宣
同じだとしたら間違いないね。

 

仮に解読できたとして、おじさんに価値がある情報だとは思えない…

 
遊心
もちろん、禅語録を読み解くことに価値がないわけではありませんが、

それよりも一番重要なことが何かを

しっかり押さえておくことが大事です。

 
道宣
つまり部外者にはわからない、親密な関係での

コミュニケーションが成立しているということですか?

 
遊心
その通りです。

 

さらに言えば、

その逸話が事実なのか

伝わったモノが情報として重要なのか

 

そんなことはどうでもよいほどに

 

「彼らのコミュニケーションが重要なものだったのだ!」

という確信を自ら得ることが何より重要です。

 
道宣
つまり、どういうことでしょう?
 
遊心
修行としてのガールズトークを

自ら納得のいくまで行うこと

です。

 

その上で禅修行においての重要なモノがはっきりとわかれば

禅修行の沢山ある師匠と弟子の意味不明エピソードが

自分の得たそれと、すべて同じ現象であったこと

その価値が理解できるはずです。

 
道宣
でも、エピソードの意味も内容も分からない人が

急にそんなこといわれても、ガールズトーク修行できませんよ?

 
遊心
だからこそ師匠という存在

禅修行ではこの上なく重要視されているのです!!

 
道宣
おぉ、では次は師匠についてのお話ですね!
 
遊心
そうです。

 

師匠と弟子という関係抜きに禅修行は語れないと言いましたが、

修行を始める身として、初めは誰もが師匠を探すわけになります。

 

しっかりと師匠がどのような存在であるべきか、

わかったうえで探さなければ無論、

 

悲劇

 

が起こることは言うまでもないですよね。

 

 

まとめ

  • 禅問答に意味はあるけど、一人ではたぶんわからない。
  • しっかり言葉が伝わる人間関係が重要

 

 

次はこちら!

 



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA