この記事について 気になる禅修行の“ホント”を話したまとめです。 師匠が見つからないのに、一生をかけろ! そんなの誰もやるわけないでしょ。 そんな現状は師匠達がみんなを救う為だった…? 苦しくも導き出した唯一の解決策とは! なんか、日本文化全てに共通する構造だとおもいます……。 |
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禅修行?一生無駄になるじゃん^q^
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ほとんど証明されたのですが?
何をあがくんですか?
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「正しいかどうかわからない師匠について、どれだけかかるかわからないけど時間をかけなさい。」と言われたら、
普通の人であれば、もちろん他の選択肢を考えます。
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多かれ少なかれ“自分の人生に納得できない”
ということで修行を志すわけですから、
探せばすぐ他の魅力的な選択肢が見つかるはずです。
たとえば新興諸宗教のアピールポイントは
皆ここに焦点を当てているとおもいます。
伝統宗教である、禅修行が提供できない
“インスタントな”解決策です。
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そのインスタントな利益が魅力的であるという状況が、
現在の禅修行の問題点を、しっかり表していると思います。
「(どうにか一生をかけてもらわなきゃ……!)」
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やはり…
時間ですか。
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無限にも等しい時間を要求せざるを得ない
少なくとも修行者本人に
その時間を費やす気になってもらわねば
本来的な修行ができない。
という今までの禅修行の前提が問われるべきです。
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禅が時間を要求するのに理由があることは
われわれが一番よく知っていますよね?
それを否定することはできないはずです。
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「一生、さらにいえば永遠の時をおくるとしても
その時その場の在り方で問題ない。」
その態度での修行を見出すためには、
「1年やったら効果出るかも」
などと考えていては、それこそ一生わからないでしょう。
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だからこそ、お金でモノを買うかのような考えで
修行することのないように
命を捨てて修行しろと言われるんです。
「そんなの誰もやらねーよ」
と言われようが、
そうでなければ人は救われないことを
誰よりもよく知っているからこそ禅の師匠たちは
そう言ってきたのではないですか。
「絶対全員をわたしは救う!」
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その言葉は“生きとし生けるものすべてを救う”
という大乗仏教のスローガンそのものですから。
その言葉をしっかり受け止めて実行してもらえば、
“必ず全員が救われる”
という確信をもって、歴代の老師方はそう言ってきたはずです。
だからこそ皆この言葉を言わざるを得ない。
「俺を信じて一生をかけろ。絶対にお前を見捨てない」
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それを言わざるを得ない理由があるのであれば
やはり禅仏教はオワコンじゃないですか……。
現代においてはその“全員を救う”という誓いのおかげで
むしろ誰もそれをやろうと思わない。
もはや誰も救われない。
そのような状況が見えてしまっては
どうしようも無いのでは……?
少なくとも今までの禅修行の形そのままでは
どうやってもオワコン化は逃れられないでしょう。
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しかし考えてもみてください。
中国禅仏教史において、果たして現代のように
師匠は弟子に永遠の時を要求したでしょうか。
「一人で全員とか面倒見れるわけないじゃろ」
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いいえ。
“絶対に一つ所で時間をかけなければ修行にならない”を
あたりまえにしたのは日本に来てからでしょう。
とくにその一つの修行方法、
念仏、坐禅などの一つの行を専門にして、
一人の師匠の下で十年単位の時を過ごすようになったのは
日本に禅が伝わった鎌倉時代からだと思います。
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それ以前、中国禅の歴史では
一つの巨大な寺に千人以上の修行僧があつまり
師匠につき、他の修行僧に学びながら修行していました。
だがしかし、ここが現代との最大の違いです。
中国禅の師匠たちは
自分の弟子に対して、いともたやすくこう言います
「おまえ、わしのとこ、
相性悪いから他行けば?」
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「おまえ俺のところよりあいつのとこ行けば?」
というのは現代の日本では、なかなか言えません。
少なくとも言えるような人には会ったことないですね。
なぜなら、それを言う為には師匠同士の
横のつながりと理解が必要ですから。
現代では、とてもじゃないですが
“仲が良い老師達”
の想像はしにくいです。
批判しあってるのはよく見るけど……。
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現代で既に見えた限界を
次世代が改善すべきと言うのであれば、
われわれがなす改善点は
禅修行における
指導者の横のつながりであるべきです。
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目の付け所……
ニッチですねぇ~
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しかしながら、これまでを踏まえて考えてください。
時間を要求せざるを得ないとはいえ、
修行者の自分との相性をしっかり理解して
他の師匠を紹介できるような指導者層が
少なくとも複数人連帯すれば、
「三十年一つの場所で坐りなさい」
とは、なかなか言わなくなるでしょうし、
「命を懸けなければ修行してはならない!」と
始める前から感じる人も減るはずです。
そうなれば、もう少し禅修行の方法としての存在価値も
今よりは、まだ高くなるのではないのでしょうか。
「わたし一人じゃできなかった……」
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という今までの形を、過去の形に学び指導者層の充実をはかることで、
【複数人の指導者層が連帯して弟子の育成を考えることのできる】
柔軟な指導方法を目指すということですね。
弟子を育てる過程で、
より良い選択肢を師匠が気兼ねなく提案でき、
また弟子もそれを選べるような形で行われるべきだと。
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当然の方法であるはずです。
師匠はグーグルで検索しても簡単には見つかりませんが、
実際にはグーグル検索で探す人ばかりだと思います。
様々な比較対象をもって、彼らの相互関係が明確であれば、
選択肢の一つとして信頼して師事することができるとおもいます。
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「他の選択肢が見えてはだめだ」
とか
「一つに決められないなら修行はできない」
とか言う言葉が広く言われていました。
そしてそう言われるべき理由は確かにありますが
前述のとおり現代においては
信頼できる師匠なんて
選択肢の一つとしてさえ
見つからない。
というケースが多いわけですからね……。
言いにくいことですが……。
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“いつでも他を選ぶことのできる選択”と
“一生をかける選択”は矛盾しているようですが、
それは本人の取り組み方にゆだねることができるはずです。
それは決して人に押し付けられるものではなく、
自身の意志と思いによるものですから…。
まさに背に腹は代えられぬ局面であることは
若い世代の見方を、より知っているわれわれが
誰よりも声を大にして言ってゆくべきだと思います。
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ではわれわれのこれからの修行も、
このような禅修行のあつかわれ方に
かかっているわけですね。
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できる限りのことをしていきましょう。
まとめ
- 人手不足過ぎて指導者層育たない。
- 日本の実力派老師は一匹狼型が多すぎる。
- 大乗仏教の立派な老師は本当に『まどか☆マギカ』のまどか。
コチラから読まれる方は以前の記事を読んでからどうぞ。