哲学と仏教の相性:仏教って哲学的なの?


仏教は哲学的なのでしょうか。

実際に仏教に関心のある哲学者はどう思っているのでしょうか

そしてこれからの仏教はどのようなアップデートを図ればいいのでしょうか。

 

哲学と仏教の相性

 

「仏教って宗教よりむしろ哲学ですよね」

 

と他分野の方々から聞かれることがよくあります。

 

個人的には宗教であるといってもいいと思うのですが、おそらく「宗教」という言葉に含まれるマイナスイメージがそう言わせているのでしょう。

 

確かに仏教には哲学的なものがありますし、知的議論を戦わせてきた長い歴史もあります。

 

私も哲学は好きな方なので楽しいのですが、仏教を哲学として語る際にいつも思うことがあります。

 

「仏教って哲学としては穴ばかり」

 

それは当たり前で、お釈迦さんは「苦の滅尽」の方法を説いたのであって、論理的に緻密な「哲学」を語るのが最初から目的ではなかったのです。

 

哲学論議をやるよりも、早くお前自身の「苦」を取り除け。その方法を私は説く。

 

というのがお釈迦さんの定石でした。

 

お釈迦さんの死後になって、アビダルマや中観や唯識など、いわゆる複雑な理屈を作りだす方向に向かいましたが、
それらも西洋の論理に慣れた現代人から見たらつまらないものに見えるでしょう。

 

例えば仏教に関心のある哲学者の永井均さんはこう言っています。

私はひじょうに若いころから仏教というものに興味を持ってはいたが、よく理解できないところの多かったナーガールジュナの『中論』と道元の『正法眼蔵』を別にすれば、少なくとも理解できる仏教書を読んでその内容に感心した覚えがない。

 

主張内容が幼稚すぎるというのは、私の偽らざる感想であった。

 

(中略)仏教書にはこの種の馬鹿げた(幼稚な)教説が多く、多少とも知性と思考力を持った読者を想定しているとは思えなかった。

『<仏教3.0>を哲学する』(藤田一照、山下良道、永井均)273P

永井均さんは別の著書でも、仏教の教説の無意味さを語っておられます。

 

すべてに賛同するわけではありませんが、これには共感できるところがあります。

 

仏教を宗教ではなく哲学として興味を持とうとする人は、その内容の「下らなさ」に驚愕するかもしれません。

 

そして、仏教を実践してきた人たちはその「下らないもの」に慣れきってしまっているので、いかんせん従来の文脈から外れた語りができなくなります。

 

そこで仏教にかかわる人たちがとっている行動は2種類あります。

 

一つ目は内容よりも仏教をフランクに知ってもらおうとする試み。

 

みんなの日常に仏教が親しみやすくあるように、サブカルなどとつなげて仏教を語ることです。

 

もう一つは、現代的な文脈で仏教の核心をど真ん中で捉えようとし、他者と語ろうとする試み。

 

その意味で、仏教を哲学的・科学的に鍛えなおす、というのはこれからどんどんやられるべきだと思います。

 

これら2つはどちらかのみではなく、両方必要なものだと思います。

 

山の高さと裾野が比例するように、仏教に精通する人と仏教にかかわる人が増えることも比例するのです

 

実践について

 

しかし、仏教は座学や議論だけでは終わらないという特徴もあります。

 

仏教を得心する際には、坐禅や瞑想といった実践が必要不可欠になってくるからです。

 

いくら哲学で深めても、最終的には実践に向かわなければ、深める意味もありません。

 

上記で永井均さんは仏教の教説を「幼稚」としていながら、なぜ彼自身が仏教に対する興味を失わなかったかといえば、実践にあると言います。

それでも私が仏教に対する興味を失わなかったのは、坐禅と瞑想の実践を通じてであり、単純そうに見えるこの実践には、複雑そうに見える(が実はつまらない)仏教の諸教説を超える深い意味があるに違いないと感じ続けてきたからである。

同書 274p

 

これからの仏教は実践まで含めた教説(語り方)の根本的な見直しが求められるでしょう。

 

そして、(これまでもそうであったように)従来の勢力から反発を受けることは免れないと思います。

 

 

例えば、永井均さんは「真我=無我」ということを言っておられますが、「無我」を生命線としてきた従来の仏教からみたら

 

真我と無我を同置するなんて、けしからん

 

ということになるかもしれません。

 

 

また、仏教関連の著述者として有名な魚川祐司さんは瞑想する理由と仏教の教説を現代的な意味においてうまく合致させています(なぜ瞑想をするのか――「無心」が開く生のモードについて)。

 

しかし、一面では『仏教思想のゼロポイント』などの著作に関して、一部の日本仏教の「観念重力空間」から、大いに批判される対象になっているとも告白しています。

 

仏教業界の人たちは・・・・・・

 

上に挙げた人たちは、いわゆる仏教徒ではありません。

 

だからこそ、自らが実践し、外部の視点から有意義な指摘をなされているのだとおもいます。

 

一方、仏教の僧侶は、それほど自由な立場では発言できず、歯がゆい思いをすることも事実です。

 

無理やりにでも教義の全能性を信じ、実践することが求められますので(そういう期間は必要だと思いますが)上に挙げたような分析を発言できるまでには、少なくとも周囲に文句を言う者がいなくなる年齢までは待たなければならないのです。

 

私自身の経験でも、仏教を実践する前に、その途上で、もっと様々な語られ方を知ってさえいればよかったのに、と感じることがよくありました。

 

しかし、これからはそのような今まで通りの教義にこだわるのではなく、他分野との交流や仏教内部の更新を促すことが、さらに必要になると思います(内容だけでなく、語り方も含めて)。

 

もしかしたら、それが「仏教」と対立するものかもしれませんが・・・・・・

 

哲学と仏教

 

なんだかまとまらない感じもしますが、とりあえずまとめます。

 

仏教は実践までを見据えたもので、哲学だけでは終わらないもの、であるということです。

 

もちろん、哲学的な議論によって仏教的な目的を定めることはある程度可能だとは思いますが、それを身体で本当に理解するためには実践が必要となります。

 

そのためにも現代的な文脈で仏教を語りなおす努力は当然必要になってきます。

 

哲学的にも仏教を鍛え、その上で実践を行う。

 

仏教では、修行には「論と行の両輪」が必要だと言われますが、これを意識していかなければなりません。

 

 

このように書くと哲学に実践がないかのように感じるかもしれません。

 

しかし、以下のようなものを<哲学>とするのであれば、仏教との間に線引きをおく意味は、特に見当たらないでしょう。

哲学とは、知識の習得なんかじゃない。変転きわまりない五感的世界から脱けでて、だれもがもっていながら眠らせている「こころのなかの器官や能力を、ペリアゴーゲー(向け変えること)だ」、と(プラトン 『国家』)。

ペリアゴーゲー、つまりは全身全霊をあげての転身作業。それが哲学。

『現代思想としてのギリシア哲学』(古藤哲明)p.6-7

 

<今ここ>の儚い瞬間に在ることが、永遠の相貌をたたえた≪それでもなお滅びざるもの≫にほかならぬことに気づいてしまう。

このタウマゼイン。

結局それが、哲学のアルファでありオメガである。

同書 p.9

哲学者と仏教者の鼎談はこちらをどうぞ

まとめ

  • 仏教を哲学的に深めること、一般の人に向けて分かりやすく発信すること両方大事!
  • 実践まで含めた仏教のアップデートが必要

 



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