感じて、ゆるす仏教 (藤田一照 魚川祐司):当代一の禅問答


日本人として「仏教」を 代表するにふさわしい お二人の対談です。

仏教の内容が大変奥深く語られていることも もちろんですが、

注目すべきは、内容を伝える方法としての “語り方”を話し合うことで、

その内容がより明晰かつ豊潤なものになっている点です。

そのため、タイトルのイメージ通りの平易な本ではなく、

仏教指導者にこそ読んでほしい一冊です。

 

著者について

私事で恐縮ですが、魚川祐司さんといえば、

著書の  「仏教思想のゼロポイント」  を初めて拝読した際に、大変な感銘を受けまして、

 

「あ、もう私がこの種の仕事をしなくてもいいのだな。」

 

という思いを抱かざるを得ないほどでした。

 

少なくとも彼の定める説明すべき内容の選択と、それについての明晰な記述を、

魚川さん以上に優れた形でこなすことは私の人生の内では不可能だと感じました。

 

それほどに、扱われる内容と明晰な記述には信頼がおける魚川さんですが、

対談相手の藤田一照師についても、おそらく誰もが文句なしの傑出した禅僧だと認める、

世界を代表する仏教指導者であることは間違いがありません。

自身の修行と指導経験の豊富さに基づいた、熟達した表現はさすがに圧巻です。

 

ただし、本書でお二人が最も称賛を受けるべき部分は、その内容というよりも、むしろ対談そのものです。

つまり、その道の第一人者である人間がお互いに敬意を忘れずに、しかも確かな批評を交わしているという点です。

 

誤解される恐れのある藤田師の言葉を、徹底的に精査し、多角的な記述を生み出すことが可能であったのは、

藤田師の主張内容への敬意とそれの理解を前提とした、魚川氏の正しい批評態度によるものですし、

 

藤田師においては、円熟した修行経験と指導の立場を持つ禅僧でありながら、

魚川氏の追求を全く非とすることなく、むしろ自身の主張を省みることすらも当然とします。

その上で、あくまで譲れない部分を提出しており、

「自分こそが対話を通して学ぶのだ。」という思いを、

これほどにしっかりと お持ちであることは、本当に驚嘆すべきことです。

 

当たり前のことに聞こえるかもしれませんが、これは本当に大変なことで、

特に発言の立場が強く固定されることが多い日本文化のなかでは

専門家同士が、それも世代をまたいで冷静かつ対等な対話を成功させることは稀です。

 

僧侶として、また仏教指導の現場を見てきたものとして、

著者お二人の信じがたいほどの知性と度量に畏敬の念すら感じる思いがするのが本音です。

 

感じて、ゆるす仏教

概観の説明にとどまりますが、藤田師の提唱する「感じて、ゆるす仏教」とは、

人間が通常、当たり前にしている「命じて、コントロールする」という “意識主導” の行いに対して、

実際に起こっていることを思考を交えず「感じて、ゆるす」 “身体主導” の修行についての表現です。

 

かいつまんで説明すると、

 

藤田師の主張(要約)

自身の努力によって成果を出そうとする「ガンバリズム」修行に見られる、

“うまく行こうとする” 思いそれ自体を捨てて、仏教が最終的に教えるべき事柄である

「本来的に無我(仏)である」事実を  “感じて、ゆるす”  ことを初めから教えるべきである

 

ということですが、魚川さんは これについて、基本的な主張に同意しながらも

 

魚川さんの主張(要約)

いくらそうだと教えたとしても、結局仏教を学び始める人は “意識主導” の中で

“感じて、ゆるす” 努力(無我のふり)をするだけとなる可能性も依然としてあるため、

“意識主導” の修行の仕方( “明示的な方法論を有する修行体系、「はからいを敢えて引き受ける」ような” 実践)にも 一定の価値を認めるべきではないか?

 

という問いを提起します。

 

二人の対立の構造

ここでは細かい解説はしませんので、興味の無い方は読み飛ばしていただいても結構です。

しかし、この藤田師と魚川さんの議論の対立構造はとても重要で、

同時に、仏教において現代に適した指導方法を考えるのであれば必ず避けては通れない問題です。

 

 

魚川さんの疑問と主張は単純です。

 

魚川さんの主張(要約)

修行方法には個人個人の相性があるのだから、各人の選択に任せるべき。

“意識主導” のやり方が “感じて、ゆるす” よりも必ずしも劣っている、とは言えないのだから、

同様の権利を認めるべきではないか?

 

というもので、どちらが正しい or 間違っている、という主張ではありません。

もっとも、魚川さんの意見の中では、

意識主導を正しくやり切れば、無我という事実に当然ぶつからざるを得ないという、

意識主導の方法論を認める具体的な理由についても言及しています。

 

一方で藤田師の主張は、

 

藤田師の主張(要約)

修行に段階を設定して、手段を選ばせるようなことはしたくない

現在のスタートとゴールを別々に語ってしまうことで、逆に遠ざってしまうとしか思えないので

最初からゴールもスタートも無いとして本来の仏のあり方(大自然のはたらき)を

感じる努力を勧めるほうが、自分としては正直で親切だと思う。

 

という主張で、短く言えば “(あくまで私にとっては)意識主導 より 感じて、ゆるす が正しく思える” というものです。

 

二人の主張を比べてみても 一見、相反するものではなく、

 

藤田師は “感じて、ゆるす” が好きだが、

人によっては “意識主導” という

同じく確立された方法のほうが相性が良い場合もある。

 

と言えれば万事解決するかのように見えます。しかし、事はそれほど単純ではありません。

 

特に、藤田師の問題意識は、あとがきにも記される通り、

 

藤田師の主張(要約)
人が感じることのできる “当たり前の現実” と、坐禅することで目指す “超越的世界” (絶対的全体である現実を超えた世界)を 二つに別けて考えてしまう事によって、 二元論的” な区別が生じ、その “今いる場所から別の場所へ” というはからいは “意識の驕りとも言うべき傾向” だ。そのため、意識主導のやり方には拒否感がある。

 

という部分にあり、この修行の段階設定と、さらに言えば、それに関係する方法論を語ることへの拒絶意識こそが、

一見相反するものではない二人の主張を対立させる「藤田師の重要なこだわり」だと言えます。

 

まとめると、

魚川さんの主張(要約)

実際に各人が辿るべき道のりは違うのだから、方法も人それぞれと言えばいいのに、

なぜ、 “感じて、ゆるす” と同列に “意識主導” の方法論も認めないのか。

 

藤田師の主張(要約)

今いるココが元々から目的地である。

この主張は知的には矛盾するが、今、ここで無我(仏)を行ずることが修行。

「違う場所へ行く」と思ってしまっては無駄な努力をするだけになる。

そのため、“意識主導” をあえて勧める必要はない。

 

という主張を 全体を通して していることになります。

 

両氏の素晴らしい議論については 是非 本書を読んでいただくとして、

これからは、この構造が生まれる必然性についてを含む、僧侶として感じる 所感を書きたいと思います。

 

所感

本書を読んだ当初、なにより驚いたことは、

「仏教指導における問題の構造」について、魚川さんが明確に問題意識を持っていたという点です。

 

そしてそれは、我々が所属する「安泰寺」を一度離れ、外に出て学ぶ必要性を強く感じた理由でもありました。

 

まさに本書で扱われる藤田師と魚川さんとの対立は、

師匠であるネルケ無方師との対話において、しばしば我々自身が直面し

また時には絶望的な隔絶を感じたこともある部分と、同じ構造を持っています。

(※ケンカしている訳ではありません)

 

一応言っておくと、これは両者の仏教理解の内容の対立ではなく、それぞれが好む表現(伝え方)の対立です。

“どうしたら人に伝わるか” についての感覚の違いであると言えます。

僧侶がすることはこれまでなかった(できなかった)対話

しかしこの対立の難しさを察することができる点は、

理路整然と問題と予測できる対処を鋭く正確に主張してゆく魚川さんに対して、

“思う”、“感じる”、“~はずだ”という調子で主張をする(しなければならない)藤田師の立場です。

 

禅仏教の文脈で修行をした身としては、 “そう言わざるをえない感覚” がよく理解できるとは言え、

魚川さんにとってはもちろん、他のどんな知的対話を求める人間にとっても

ハッキリ言って意味不明な論調が見つかると思います。

 

実際に、ご本人がおっしゃる通り、

藤田師の主張は “現実と超越が一つである” という部分で “知的には矛盾” しています。

 

しかし、それこそが「現実の修行がそのまま悟り」という禅僧の伝統的な主張内容であり、

その主張の知的理解を、いたずらに目指すことなく「ただ行ずる」ことを教えるべきとされてきました。

 

伝統的には藤田師が「アタマで考えても 絶対にわからないのだから細かいことを言う前に私の言う通り修行しなさい」と、言ってしまえば済む話であったし、根拠は “釈尊から伝わる仏教をわかった” という指導者側の実感だけでも 今までは問題ないはずでした。

なぜなら禅の指導者としての証明である “嗣法” というシステムがそれを可能にしていたからです。

 

「釈尊から代々 仏法を受け継ぐ証に黄色いお袈裟を着ています。だから私の言っていることは釈尊が言っていたことと変わりません。」という前提があるため、

「知的努力が足りない」とか「責任不足である」とかの非難を浴びることは、

これまでの禅僧にとって ほとんど無かったと思います。

 

 

しかし現代において、誰もそうは思わないし、言わないように、

「彼の言う通りに修行すれば上手く行くことの証明」として “嗣法” は、もはや役に立ちません。

 

だからこそ藤田師と魚川氏が意識的に取り組むような「仏教の知的解釈と、より明晰な記述」をする仕事が

今まで以上に 必要とされているのだと思います。

 

それをふまえて考えると、高い実力と立場を持つ藤田師が、ゴータマ・ブッダ も “無記” で済ませたような問題ですらを

知的言語記述という方法にのっとって魚川氏と対等に語ろうとされることが称賛されるべきだと思います。

 

なかなか噛み合うことのない対話

 

本書の後半部分において、魚川さんは両者の伝えようとする “対象” の違いを指摘しており、

暗に「だから対象によっては方法も変わるかもしれませんよね?」というようなことを言っています

私は主に 日本の実践者を見て 既述のような懸念を抱いているのですけれども、他方で一照さんはアメリカで長く西洋人を対象に禅の指導をされてきましたから、前章でも申し上げたとおり、私と一照さんでは「心配していること」が違うという ところもあるのではないかと思います。

しかし、藤田師は、あくまでそのどちらにも通用する方法論としてこのように語ります。

アメリカ人でも日本人でも共通しているのは「感じていない」ということなんですよ。

魚川氏の「対象が違いますよね?」という論旨には触れずに藤田師が繰り返すのは、

「(あなたの対象も含めてみても) “感じて、ゆるす” が最良の方法です」という主張になっています。

ご自身の方法論をあくまで “対象を選ばないものであるとして扱わなければならない” という必要を

感じられていることが察せられる部分です。

 

超越と現実の境を両側から話し合う

魚川:ただ、この対談の全体を通じて浮かび上がってきたことですが、私と一照さんのスタンスに微妙ながら違いがあるとすれば、一照さんはおそらく、先ほどまさに「僕自身がクエスチョンマークだ」と言われたように、その「クエスチョンマーク」や「違和感」の世界と自身との一体性を強調されて、そこをあまり乖離させることをよしとされないというか、「その一体性こそが事実だ」というお立場なのではないかと推察いたします。

他方、私のほうは、その「違和感」と私自身は、岡潔が「理性的世界」と「宗教的世界」についてそう言ったように、「両方をかね備える」ことはあり得ても、それらは決して一体にはならず、そこに微妙な乖離というか、綻びが必ずある。そして私は、むしろその綻びを、大切なものだと思っているんですね。

この対立は一言でいうと、

超越 と 日常的現実を “どう扱いたいか” によって別れます。

 

 

藤田師を含む “超越側” の基本的意見として

「それは日常的現実と一枚だから分けて語ってはならない(だからこそ方法の違いも語らない)」

という論旨があります。

 

対して、「 “超越側” の主張はもっともだが、人にそれを語るときには “現実” の中の話も加味して話すべきだ。現実と超越の境のあわいこそが重要。」

という主張の “日常的現実側” の意見が魚川さんのものである と言えると思います。

 

 

「別けて語らないと、適切な方法についてのお話ができませんよ?」

という “現実側” の当然に思える主張に対して、“超越側” は、

 

「別けて考えた瞬間に間違ってしまう。真理は一つのみ!」

と言わなければならないからこそ、

自身の方法論以外にはあえて他の方法を吟味するということをしません。

 

悟りから現実を見るか、現実から悟りを見るかの違いともいえます。

 

 

現実と超越の対比については、中国禅仏教史における

馬祖道一の系譜と 石頭希遷の系譜との対比が有名です。

【ブックレビュー】禅思想史講義(小川 隆)

2018.08.29

 

現代における方法としての適性

上記の通り、この二つには内容自体の質の差や優劣は無いとしても、

しかし、当然ながら考えるべき議題として時代に適したものかどうかが問われなければなりません。

 

「はからいをやめろ!」

「その“はからい方“を考えてもいいんじゃない?」

「それこそが お前の はからいだ!」

「そう言ってばかりでは誰にもわからないよ!」

 

この両者の対立は、長く続く禅の歴史でもあります。

 

 

 

『感じて、ゆるす仏教』において藤田師と魚川さんのどちらの意見が、

より現代に適しているのかは是非各人の判断に任せておきます。

 

もちろん答えはありませんから、これは読者自身の問題となります。

 

それを踏まえて個人的経験から話をさせてもらうと、

われわれの師匠も藤田師と同じく、「はからいをやめる」方向を好む指導論をお持ちでした。

 

もちろん言われる通りの修行をし、また、それに準じた指導を多くの後輩にしてきた経験から、

われわれ個人としては、「人によっては適切な方法を考えるべきではないか」と感じます。

 

少なくとも、そのように思わざるを得ないことが修行中には多々ありました。

 

魚川さんが本書の中で、

“はからい無し” の不生禅(盤珪禅師)と、それに批判的であった公案禅(白隠禅師)を例に挙げ、

方法の優劣はともかく、その語り方のもたらした差異を取り上げています。

結果として傑出した禅僧を多く後代に輩出したのは、圧倒的に白隠禅師の法脈であったことを考えてみると、

少なくとも時代に適した形での語り方としては、歴史上に残る前例として “意識主導” のアプローチも認められるべきだと思います。

 

修行の実際から見たら

 

もちろん、修行の現場では、藤田師の言うように、ガンバリズムで修行をしようと頑張る人もいれば、

魚川さんの言う通り、“我で無我しぐさ” をしようとする修行者も大変多かったです。

 

 

安泰寺に多くいた外国人参禅者は、藤田師のおっしゃるような特徴と同様で我が固い傾向がありましたが、

彼らに多く見られた修行態度を振り返ると、実際には “我で無我しぐさ” が多くみられました。

藤田師の意見では「 “外国人は我が固い” からこそ、感じてゆるす方法が良い」はずですが、

そんな彼らの口癖は「Natural Myself であることが重要ってことでしょ? 私は今その Natural Myself です。」という、“命令してコントロールする” ことを放棄して、“感じて、ゆるす” ふりをする、というものでした。

 

また、魚川さんがおっしゃることにも、このようなものがあります。

意識なんて結局のところ突き詰めきれないものなので、それは遅かれ早かれ身体のほうから侵犯され、「無我の修」へとシフトせざるを得ないことになる。私が思うには、伝統的な仏教の修道のプロセスには、その契機がきちんと含まれているんですよ。

 

この意見ついては全く正しいとは思いますが、

“伝統的仏教の修道のプロセス” にどっぷりつかって修行しているはずの環境にいた身としては、

実際の僧堂ではガンバリズムでの修行の方向から逃れられないような環境が、

今日では新たに出来上がってしまっているのもまた事実です。

藤田師の立場から見れば、このような僧堂教育の現状もふまえての意見であると思われます。

 

一人の主張だけでは限界がある

 

また、これは我々にとっては重要な点ですが、

“二元論を嫌うからこそ、[ここからあそこへ]行くための方法を選ぶような考え方を拒絶する”

という部分においては藤田師と共通の考えである、我々の師匠の主張は、

藤田師と少なくとも表面上は真逆の「死ぬ気になって修行しなさい」というものでした。

 

藤田師が本書で何度もおっしゃるように、当人にとってはそれが一番正直で親切だからこそ、

自分が最も優れていると感じる方法論が、今の現実と超越を重ねるための方法であるとして、主張をすることは全くおかしい事ではありません。

また、藤田師が「はずだ論」についての中で語る、「ゴータマ・ブッダの真意であるはずだ」という指導者の断言が、

修行者へもたらす “宗教的パワー” と言えるものは確かに存在するとは思います。

(※あたりまえですが、俗にいう霊能力とか神のご加護の話ではなく、人の宗教性の陶冶において、良い影響を及ぼす力を持つ、という意味です。)

 

 

しかし、藤田師と我々の師匠が、「現実と超越が一枚であることの体認」という、

内容としては同じことを求めているのにもかかわらず、

結果として全く違う行為を求めていることで分かる通り、

どのように伝え、伝えられるべきなのかは、十人十色、当人次第と言わざるを得ません。

 

対話の持つ力

総括して、この一冊において語られている問題は

現代(禅)仏教が直面している最重要課題を含んでおり、

予備知識が多少必要であるとはいえ、大変優れた一冊であると言えます。

 

また卓越した専門家の著者お二人が真摯な対話を残したことで

結果として、有機性を持った理解が可能となっている点も素晴らしいと思います。

 

例えば、禅修行の僧堂ではかつて、おそらく当たり前であったであろう修行者同士の問答のようなもので、

実力者同士の対話というものは総じて、当人のみでなく、他者から見ても大変良い勉強になるものです。

 

 

本来の禅修行とは、そのような相方向的なコミュニケーションを行う修行僧どうしの

周りを巻き込んだ有機的な成長を狙うことがシステムとしては大変有効であったことでしょう。

※現代の僧堂においては、お世辞にもこのシステムが修行に活かされているとは言えません。
この点に関しての禅修行についてはこちらをご覧ください。
[禅修行ってなに?全四回]

禅修行ってなに?①:禅修行ガールズトーク説

2018.09.02

 

 

現代において、それを可能にした著者お二人には感嘆の念を禁じえません。

惜しむらくは、扱われている内容と二人の主張の交差が、おそらく難解な為に、あんまり売れないんじゃないかな?ということです……。

全仏教クラスタに読んでほしいものですが、レビューサイトでの書評を見ると、

一般的な内容が平易に語られているとは、やはり言えないようです……。

 









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