教えて!仏教の「アレ」②:因果応報ってなに?


よく耳にする言葉、「因果応報」についてご質問いただきました。

本来的な意味合いとは何なのか、

簡単にお話ししました。

参考になる本も、記事の終わりにご紹介します。

 

道宣
「因果応報」についてのご質問です。

いずれ「因縁」と「輪廻」についての記事を

しっかり書きたいと思ってはいたのですが

まだ書いてませんね…

 
遊心
大変重要な部分ですからね。

いずれ書きましょう。

 
道宣
今回は「因果応報」について、

一般に広まっている理解と

本来的な意味合いとの差だけでもお話しします。

 

言葉だけの意味をはじめに言うと、

 

「あなたが作った原因に応じて結果が起こりますよ」

という大変簡単なものです。

それ以上の意味はありません。

重要なのは仏教的にどのように使われるのかですね。

 
遊心
普通に「因果応報」といえば、

「悪いことしたやつにはバチが当たるぞ!」

という意味で使われることが多いですね。

 

 

嘘ついたら地獄に行って

エンマ様にベロ引っこ抜かれるぞ。みたいな。

 
道宣
そうですね。

その一般的に言われるような場合では、

悪いことしたらバチがあたる!

ということが「因果応報」となってしまいます。

 
遊心
そうですね(笑)

 

ここでいう“善悪”と

仏教でいうそれは、しばしば

“善悪”という概念自体が異なります。

 

 

社会的な価値観の中では、

“善い(悪い)ことをしたら善い(悪い)結果を得る”

と言われるときの

道徳的な“善(悪)”は、

ほとんどの場合

「利益(損害)を招くかどうか」で決まります。

 
道宣
そうですね。

同じ漢字を使うからややこしいのですが

“道徳的な善”“仏教的な善”と、

仮に分けたとすると、

この二つはまったくの別物であると言えます。

 

 

もちろん、お釈迦さんも社会生活をおくる

在家信者にむけて説法をする時には、

 

「(道徳的)善行をして、

生まれ変わった次の生において

より善い生をおくりましょう。」

というようなことは言いますけれども。

 
遊心
では“仏教的な善”とは何か。

 

簡単に言ってしまえば

 

「涅槃に近づく行い」

 

です。

 

「苦には原因があって、

原因を滅すると苦も滅して

涅槃に近づきますよ。」

というのがお釈迦さんの教えですから

“涅槃に近づく行い”とは

“苦の原因を作らない”

ことだとも言えます。

 
道宣
はい。その通りだと思います。

 

“苦の原因”をつくったら、

“苦”は無くなりませんし、

悟ることもできませんよ。

というのが「因果応報」の

本来的意味合いと思ってもらえばいいですね。

 
遊心
その“苦の原因”には、

「利益を得たい」という煩悩も含まれますし

そのような欲望が満たされることが

一般的にいう“利益”のことなので…

 

道徳的な“善”を行って

自分や他人の“利益”を生む行為とは、

欲望の充足を結果として目的にしているため

 

“苦の原因”をつくることにもなり得る

とさえ言うことが出来ます……。

 

もちろん必ずそうなるわけではないので

あくまで無理やり、そう言うこともできる。

ということですが。

 
道宣
それほど“一般的善悪”と

“仏教でいう善悪”は異なっている、

ということですね。

 

 

これはスッタニパータの一節ですが、

初期の経典において語られている

一般的な“善悪”について、

どのように扱われているのかが、よくわかる部分です。

 

636  この世の禍福いずれにも執著することなく、憂いなく、汚れなく、清らかな人、かれをわたくしは〈 バラモン〉(※理想的修行者)と呼ぶ。

642 〈 快楽〉 と〈 不快〉とを捨て、清らかに涼しく、とらわれることなく、全世界にうち勝った健き人、かれをわたくしは〈 バラモン〉 と 呼ぶ。

中村 元. ブッダのことば-スッタニパータ (岩波文庫)

 

遊心
ここで言う「禍福」とか「快楽と不快」

禍、不快=不利益⇒“一般的な悪”につながる

福、快楽=利益⇒“一般的な善”につながる

 

ということになるので、仏教的に言えば

これらの“善悪”どちらも捨てることが

修行者として目指すべきもの(涅槃)である。

 

ということになりますね。

 
道宣
不利益を避けて利益を求めることは

一般的に悪い事とは思われてないですが、

仏教では、その“上手くやろう”という行い自体が

“思った通りにならない”状態(苦)を生み出す

ということで、しばしば意図的に避けられます。

 
遊心
これって、

「じゃぁ涅槃を求めるのも

利益を求めていることと同じでしょ?」

と言われると難しいのですが、

“涅槃”が一般的な利益でないことは確かです。

 
道宣
そうですね。

 

“涅槃”を一般的価値観で

「ナニカ素晴らしいもの」

だと考えている人もたまにいますが

まったくの別物ですし、

 

ハッキリ言って、そういった

一般的な利益が必要な場合には

単純に一般的な努力を行ったほうが

効率よく解決すると思います。

 

 

例えば、恋人がいなかったり

お金が無いことで悩んでいる人が

修行することで問題が解決するとは考えにくいです。

 
遊心
そうですね。

 

そこで言う“利益”は

いくら修行してもたぶん手に入りません。

 

 

逆に、一般的な利益からはずれた問題、

「恋人が出来たりお金があれば解決する問題だとは思えない」

というような時に、

 

恋人が居たり居なかったり、

お金が有ったり無かったりで

右往左往する自分自身に対する問題意識を感じる場合などは

仏教を学ぶことで得られることもあるかもしれませんね。

 
道宣
そこで初めて「因果応報」という考えが

本来の意味で活かされるということになります。

 

 

まさに上で引用した通り、

恋人が居る、お金が有る、という「利益」と

それが無いことの「不利益」を共に捨て去って

“苦”の原因を作らない努力をすることで

“涅槃”を目指すという修行をしてもよいと思います。

 
遊心
はい。

論理的には簡単な話のはずですが、

言葉の使われ方が雑然としすぎているため

とても分かりにくいです。

 

“一般的な”善悪に混じって考えられているが、

“仏教的な”善悪は特殊な別物であるということが

重要な部分ですね。

 
道宣
はい。

われわれの説明も、正直言って

かなり雑然としてしまったので、

下にご紹介する魚川祐司さんの書籍を参考にして頂ければ

因縁、輪廻、涅槃、などこれ以上ないほど明確に

説明されていますので、ぜひおすすめです。

 

 



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