この記事について 禅僧が実体験をもとに修行の本質を語る超ホンネ記事! 難しい話なので分かりやすい例えを使おうとしたら、こうなりました。 ふざけすぎてごめんなさい。内容はしっかり考えました。 禅問答の意味を問うよりも、その構造に着目したら、 より深い意味で禅修行が理解できるかもしれません。
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遂に口を開く禅僧
特に曹洞宗、道元禅師門下の修行について
ということですね。
「禅」と言ったときに関係のある宗派は
ほとんどの場合その曹洞宗か、
臨済宗、黄檗宗のいずれかに限られます。
とくに海外で聞く「ZEN」は道元禅師の著作が有名なこともあって
曹洞宗が多いですね。
いわゆる禅宗ですね。
禅修行というと、実際に何をやるか
あまり具体的なイメージはわかないでしょうし
かなり先入観が強い場合があるので
なるべくその先入観を捨ててもらうべきなのですが…。
坐禅して棒でたたかれて
わけわからん問答やってぶん殴られる
みたいなイメージがあります。
それって何のためにやってるの?
ってことです。
見た目だけではとても内容は分かりません。
ガールズトーク!?
的確なたとえとして、誤解を恐れずこれを言います。
名付けて
禅修行ガールズトーク説!
どういうことですか?
まず禅修行の特徴の大きな一つ
悟りに通じた師匠が志を持つ弟子を育てるという
師弟関係があります。
それ抜きには禅修行は成り立ちません。
禅宗の中では一応
お釈迦さんが悟りをひらいて、それを伝えたのが
弟子のひとり摩訶迦葉(まかかしょう)尊者であるとされます。
お釈迦さんがあるとき弟子を集めて説法の場を開いた。
弟子が大勢集まる中、お釈迦さんはだまって花をつまみあげ、
何も言わずにまばたきした。
それを見た弟子の中でただ摩訶迦葉だけがわずかにほほ笑んだ。
というエピソードです。
しかしこのエピソードで重要なことは
その“わからない内容” ではなく
この後お釈迦さんが「摩訶迦葉に悟りを伝えた」
としたところです。
唯一示されている重要なことは
花をつまみ上げてまばたきする
ことではなく
それを見てにっこり笑う
ことでもない。
周りから見たら意味不明だが
師匠と弟子は明らかに
完璧な意思疎通をした
ということです。
なにも内容がわからないのにそこが大事だと言いきるんですか?
すくなくとも二人の行為に関して明確な意味づけは無意味です。
いろいろ勝手に意味づけることは可能ですが
お釈迦さんの伝えた内容が何なのかを考えることで
むしろこの逸話の意味を分かりにくくするのは間違いありません。
だって、まるっきり意味わからないですから。
それにこれ、宗門で大事にされている逸話とはいえ
ほぼ間違いなく史実ではないです。
その実際に起こった出来事なのか創作なのか
ということもむしろ重要点ではないとしたほうがよいでしょう。
人間性を疑われる禅僧
いきなりぶん殴ったり、棒でひっぱたいたり
鼻つまみあげたり、指切り落としたり
ひどいときには
ネコぶった切ったりするからね。
かわいそう。
ショッキングな出来事がつづられています。
重要なのはそれらすべてが
まったく
意 味 不 明
だということなのです。
外から見たら意味不明の師匠と弟子のやりとりで
ある時なぜかお互い満足げに
“悟りが伝わった”
と言いだす現象・・・・・・
つまり禅修行の師匠と弟子の関係において
常に行われている修行とは
ガ ー ル ズ ト ー ク
だったのです。主に女子高生のような。
いや、それ的を射てるかもしれないけど、
聞いただけだとただのアホの人みたいに聞こえるよ?
間違いありませんから。
マジ猫かわいそぉ~もぉクツ頭乗せてかえる~
当事者たちには一番効率の良いコミュケーションができる、
恐怖の現象
女子高生のガールズトークのような現象が起こっている、
と考えてみると納得できますね(笑)
この逸話を聞いてどう感じますか?
ある時弟子たちが猫一匹を引っ張り合いながら口喧嘩をしていました。
通りかかった師匠が怒鳴りつけました
「なんだコレは!!!言わなきゃ斬るぞ!!!」
弟子は誰も答えられなかった。
遂に師匠は
猫をまっぷたつにぶった切った。
その後、師匠は弟子の一人にたずねた
「お前ならどうこたえる?」
弟子はわらじを頭にのせて歩いて行ってしまった。
師匠が一言、
「あいつがいれば猫を斬らずに済んだのに…」
この
(なにそれこわい・・・・)
ってかんじ
とってもガールズトークと似てません?
「ワンチャンエンカあるww」
(もしかしたら会うかもしれない)
「そマ?マジ卍www」
(それ本当?すごくやばい。)
「テンアゲ↑ぶっちはイミフ!」
(興奮する。連絡しないのは理解できない。)
と聞いた時と、おなじ不安をおぼえるかもしれない。
いずれとも部外者からしたら
(え?なに?こわっ・・・)
としか思えない現象なのです。
ぜひ固定観念を崩壊させてほしいです。
禅修行において時には崇高で
時には深淵で
また時には高尚なイメージを持って見られる、
いわゆる“禅問答”は、
じつは現象としてはマックの女子高生が行う
ガールズトークとまったく同じものだったのです。
一人じゃできません。
仏教の重要な真理なんですよね?
しかし、その内容を一人で推し量ることが果たして有効か、
それは女子高生の会話をおじさんが頑張って解読するのと
同じくらい馬鹿らしいことだと思いませんか?
仮に解読できたとして、おじさんに価値がある情報だとは思えない…
それよりも一番重要なことが何かを
しっかり押さえておくことが大事です。
コミュニケーションが成立しているということですか?
さらに言えば、
その逸話が事実なのか
伝わったモノが情報として重要なのか
そんなことはどうでもよいほどに
「彼らのコミュニケーションが重要なものだったのだ!」
という確信を自ら得ることが何より重要です。
自ら納得のいくまで行うこと
です。
その上で禅修行においての重要なモノがはっきりとわかれば
禅修行の沢山ある師匠と弟子の意味不明エピソードが
自分の得たそれと、すべて同じ現象であったこと
その価値が理解できるはずです。
急にそんなこといわれても、ガールズトーク修行できませんよ?
禅修行ではこの上なく重要視されているのです!!
師匠と弟子という関係抜きに禅修行は語れないと言いましたが、
修行を始める身として、初めは誰もが師匠を探すわけになります。
しっかりと師匠がどのような存在であるべきか、
わかったうえで探さなければ無論、
悲劇
が起こることは言うまでもないですよね。
まとめ
- 禅問答に意味はあるけど、一人ではたぶんわからない。
- しっかり言葉が伝わる人間関係が重要
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